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What is sin? What is being punished? Not judging by myself is a clue to imagine with others. / 罪とは? 罰を受けるとは? 決めつけないことが他人とつながる糸口に

2024/8/24 ドキュメンタリー映画「プリズン・サークル」を見た。

「プリズン・サークル」
日本国内で唯一、「TC(Therapeutic Community=回復共同体)」というプログラムを導入している刑務所、島根あさひ社会復帰促進センターでの取り組みを追ったドキュメンタリー映画であった。

罪を犯して捕まるなんてありえない。
普段、僕らは無意識のうちにそう思って、それ以上考えない。

この映画はそんな風に過ごす人たちにとっても、罪って何なのか、償うって何なのか、憎むとは、憎まれるとは、人を罰するとは、罰を受けるとは、と問いを次々に投げかけてくる。答えは人それぞれ違うし、決まったものは無い。でも、この問いをきっかけに、刑務所の中の人と自分たちの間の距離が無くなる。そこにいる人々も自分と変わらない人間なんだとハッとさせられる。そんな映画だった。

次元はそれぞれ違うのだけれど、
僕たちは何を罪だと断じて、何を罰として課して、めくるめく起こる出来事を判断しているか。それは他者へのジャッジもそうだが、自分へのジャッジに対しても当てはまる。ある時は法律に照らして、ある時は自分自身や著名な人が言う価値観に照らして、ある時は先生や親、上司や先輩に教えられたことに照らして。大事なことは、罪と罪ではない間を行き来することではないか。そして、様々なことに照らして行き来しながら、何が罰なのかを決めつけずにいることではないか。罪や罰は自分が決めることでもないし、他人が決めることでもない。自分や他人を行き来しながら形作られるものを書き留めてみたり、仮決めしながら出来上がるものではないか。

行き来する中で他者を傷つけることもあるし、自分を傷つけることもある。大事なのは、行き来しないうちに決めつけてしまうことではないか。他人が決めた価値観に頼ることも大事で、一方で自分が形作る価値観も大事。行き来しながら両方を大切に生きていくことが大事。そのことを身につけること、そのことを考え直すことが罰を受ける時間の中で大事なんだろうなと感じた。

昨今、会社や個人の不祥事事件が起きると、僕らはすぐ、誰が責任をとるのか、責任をどうやって取るのか、ということにすぐ焦点がいってしまう。それは事件を理解して次に進むために必要な要素の一つかもしれないが、大事なのは、何が許されないことなのか、何を罰として課されるのか、そのことを当事者が考えられるように対話すること、対話するチャンスを回りが奪わないこと、それが一番大事なのかもしれない、と感じた。

昔から色々な人が考えてきた罪と罰。
自分なりにも深めたいテーマだと改めて感じる機会になった。

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