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バーボンウイスキー

 バーボン・ウイスキーの話をしたい。もう20年以上前のことだが、おいらはフォードの試乗会でディアボーン(デトロイト)からアトランタまでクルマで走ったことがある。ケンタッキー州を走っていると両側がトウモロコシ畑なのだが、何時間走っても景色が変わらず、ずっとトウモロコシ畑だったのを思い出す。まさにアメリカの大きさを思い知らされたものである。
 大量に作られるトウモロコシの一番の消費者は牛と豚であるが、人間用のバーボン・ウイスキーも盛んに作られている。地ビールのような小規模な地バーボンも多く、その土地の人で完全消費してしまうような醸造所が多いのである。もちろんその味も多彩で出来れば何泊もして他のバーボンも味わいたかった。
 バーボンウイスキーの起原は諸説あるが、起原前の話をする。紀元前ではなく起原前である。アメリカ独立戦争が起こる前に、というかイギリスの植民地として13植民地が出来る前からイギリス移民(正確には北アイルランド系の移民)がラム酒やブランデーなどを作っていたという。もちろんこれはバーボンではないが、少なくともアメリカ移民がバーボンを作る下地にあったのである。彼らはやがてアメリカで入手容易なトウモロコシやライ麦でウイスキーを作り始めたのである。
 アメリカ合衆国が独立宣言したのは1776年であるが、それから独立戦争を闘いイギリスが独立を認めたのが1783年であった。その後合衆国政府は1791年に蒸留酒への課税をした。
 これに農民たちは猛反発をし酒税の支払いを拒否しウイスキー暴動が起こる。暴動は長期化し、合衆国政府はそれを収束するために1794年にバージニアの一部であったケンタッキー地区への移住政策を打ち出した。
 それより前、1783年にエバン・ウイリアムスはケンタッキー初の蒸溜所を作っているし、2年後の1785年にジム・ビームもまたケンタッキーに移っている。
 ケンタッキーは石灰岩による上質な水とトウモロコシ栽培にうってつけな土地であった。そしてこれからがバーボン・ウイスキーの起原になるのであるが、1789年パプティスト派のエライジャ・クレイグ牧師が家計の足しに作っていたウイスキーが美しいルビー色をしていることが評判になる。これが第1の説で、もうひとつが樽の内側を病原菌を繁殖させないため焼くのだが、焼過ぎてしまった樽から香ばしく美しい色のウイスキーができたという説。いずれにしろこのころからトウモロコシを主原料として内側を焼きまくった樽でのウイスキー作りが定着したのだ。
 とここまで書いておいて言っておくが、以上のことはおいらの記憶と十数冊の文献をもとに書いていて、ネット上の情報は信頼できない物も多いので一切参考にしていないという点をお断りしておきたい。
 1920年から33年まで有名なあの禁酒法によりバーボンを作っていた5000を越す零細蒸溜所は数えるほどしか残らず、大手資本のウイスキーに席巻されることになる。
 バーボン・ウイスキーの名前はフランスのブルボン家に由来し、ケンタッキー州中央にはブルボン郡が存在し、それはアメリカ独立戦争の時にフランス軍が加勢してくれた感謝の意であるということ。ブルボンの語源はケルト語で泥を意味するborvoまたはborboであるといったような誰でも調べればわかることも一応書いておくか。
 おいらの若かった頃のお気に入りはエバン・ウイリアムスの一番高い奴だった。曖昧な記憶だが27年物だったと思う。今手に入るエバン・ウイリアムズの高級品は23年物のブルーラベルだが、それではなかったことは確か。
 次いではまったのがIWハーパーだ。今思うとその歴史も知らずにジム・ビームやジャック・ダニエル(これはケンタッキーではなくテネシーであるが)は安ウイスキーと決めつけていた。 そしてケンタッキーで地物のバーボンに感銘して、当時バーボンについて調べた資料が手元に残っている。
 1948年アメリカ連邦アルコール法によるとバーボン・ウイスキーは原料となるトウモロコシが51%以上80%未満であり、160プルーフ(80%)以下で蒸留すること、そして新品で内側を焦がしたホワイトオーク樽で2年以上125プルーフ以下で蒸留させることとなっている。ちなみにトウモロコシの割合が80%を超えるとコーン・ウイスキーとなり、それはバーボンではなくなってしまう。
 バーボンに限らず、スコッチウイスキーでも蒸溜時は65〜80%のアルコール度数であり、樽に入れる時にアルコール分を調整するために水を入れる。従って、俺はストレートしか呑まない。水割り飲んでる奴は、、、とかホザいている輩がいるが、あんたの呑んでるストレートウイスキーはすでに水割りなんだよと教えて差し上げたいものだ。

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