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アビガン投与にまつわる問題があぶり出す「調整文化」

日本で開発されたインフルエンザ治療薬であるアビガンが、新型コロナウイルス感染症にも効果があるという情報は、中国などから症例としてかなり前から報告されてきました。
日本でも、元野球選手などが新型コロナウイルス感染症にかかった後、アビガン投与により回復した、というニュースが報道されています。
こうしたいくつもの治療の成功例はすでに私たちの目に触れており、今は感染爆発の瀬戸際という危機的な状況にあるにもかかわらず、アビガンが希望すれば誰にでも投与される状況にはないのはなぜか。

もともとアビガンは新型コロナウイルス治療薬としてではなく、インフルエンザ治療薬として正式に承認された薬です。そのため新型コロナウイルス感染症の治療薬としては、正式認証の手続きがまだ終了していません。治療効果は100%とは言えませんが、その治療実績からはそれなりの治療効果は認められています。副作用についても試験済みです。
しかし、実際にアビガンが治療に使われているのは、観察研究に参加している一部の指定病院と倫理委員会が未承認薬の使用を承認するという条件を満たす医療機関だけです。

たしかに正式な認証手続きは終了してはいないとしても、副作用の試験は終わっており、緊急時でもあることから、必要とする人(副作用の懸念が少なく、自ら投与してほしいという意思を持つ人)には投与できるようにするべきだ。投与することで死者を減らす努力が必要だ、と通常の思考力を持つ人なら誰もが考えます。
自宅待機せざるを得ない感染者や入院している患者はもちろん、感染の危険にさらされながら懸命に働いている医療従事者も、生死に直結することですから、自ら望めばすぐに投与されうる環境整備が絶対に必要です。多くの命が助かる可能性がそこにはあるからです。

アビガン投与の効果はそれだけではありません。アビガン投与で重症化する患者一人を防ぐことができれば、エクモ一台、ICUベット一床、専門医療者5名という貴重な医療資源を1ユニット増やすのと同じ効果があるのです。現在、極めて厳しい状況に置かれている、新型コロナウイルス対応をしている医療現場の負担を軽くすることにもつながるからです。
問題は、このアビガンが投与されない理由が、薬が効かないからでも、薬が足りないからでもないことです。単に認可の手続きが終了していないから、だということです。

危機的な状況に陥った場合、必要とされるのは優先順位の見直しです。
最優先は人命ですから、通常なら必要とされる複雑な手続きも、期限を切ってでも簡略化しなくてはなりません。手続きに時間がかかることを理由に人命を損なうことは許されることではないからです。
しかし、今回の新型コロナウイルスが引き起こした危機で、多くの人が意識するようになったのは、行政の対応がとにかく遅い、という事実です。もちろん、行政に携わっている人たちも、昼夜を問わずに必死の努力をしているに違いありません。にもかかわらず、行政が必要と考えている手続きが人の生死を左右してしまっている。一体それはなぜなのか。

それは、個人の資質や意欲の有無で起こっていることではありません。つまり、組織をがんじがらめにしている組織に潜む文化そのものに問題が潜んでいるのです。
調整をこまめにするという日本独特の仕事の仕方は、堅実さが売りの日本的な体質に合っています。問題なのは、予定調和という価値観が働きやすい組織文化であるため、平成の時代を通じて、「調整のための調整」がまかり通るようになってきていることです。
こうした守りに強い経営状況を総称して「調整文化」と名付けます。

今回のコロナ危機における行政の対応をこの「調整文化」という視点で見ると、なぜすべてが後手に回ってしまうのか、その理由がよくわかります。
「調整文化」は予定調和の価値観を大切にする守りの文化です。ですから、新型コロナウイルス対応のようなスピードが要求される危機対応にはそもそも不向きの組織文化なのです。

アビガンの認可を管轄する厚生労働省からすれば、それなりの理由はあります。正式なプロセスを経て認証をしないままに使用を許可するとなると、そこにはリスクがあるからです。もし何か問題が発生して訴訟などが起きてしまうと、その責任を取らなければなりません。
「調整文化」の組織は失敗の存在を認めません。しかし、ものごとを事実・実態に即して考え進めようとするなら、複雑な状況にも対応しなければならないため、失敗があるのは当たり前です。失敗があることを前提に、やってみてもし間違いがわかったときはすぐに方向転換する、という本来必要な柔軟な対応が「調整文化」ではできないのです。

「調整文化」に染まっている組織では、事実・実態よりも、失敗しない、というタテマエを貫き通すことが優先され、柔軟な対応ができないのです。
優秀な彼らのこうした行動は、組織から余分なゴタゴタを消し去り、組織は安定します。組織がその安定を強固にするために共有している、このような思考方法、伝統に基づく考え方や価値観を「調整文化」として理解しておくことで、その功罪が見えてきます。

平時には調整文化的なやり方でことは進みます。組織の中の人間にとって仕事とは、組織から要請される、つまり、上から指示されたことを、法制度や社内ルール、過去のしきたりなどの範囲内で無難に処理していくことです。ですから、「してもいいこと、いけないこと」そして「できるか、できないか」の判断を同時に無意識のうちにしながら、できる範囲内でことを進めています。

この仕事の仕方に欠けているのは、自らの「思い」を持って仕事をすることです。
「思い」というのは、「何かをしたい」、たとえば「アビガンを望む人ならどの患者にも投与できるようにしたい」などといった使命感のことです。
医系技官の中に「アビガンを患者本人の希望さえあれば、どの医者でも投与できる」という状況をつくりたいと思う人がいても、まず「できるか、できないか」を判断することから思考をスタートさせる、という思考習慣が身に着いているので、少し難しいと思うと、優秀な人ほど初めからあきらめてしまうのです。

「調整文化」が強い組織の中では、そこで働く個々人が使命感など持ったりすれば、かえって面倒なことになるばかりなのです。堅固な組織の中にいる人間ほど、個人的な「思い」を持ち難いのはそのためです。

「調整文化」の中では、高級官僚どうし、医系技官どうしというのは、互いに心の内をさらけ出して話し合う、という機会を持ってはいないのが普通です。たぶん一人ひとりは内心ではモヤモヤした思いを持っているでしょう。にもかかわらず、その思いを互いに話す機会もないため、互いが何を考えているか知らないまま、全体としては何も動かない、という状況がつくられているのです。

今の関連する法体系を堅く解釈し、立場の範囲で動いている限り、認可されていないアビガンを「希望すれば投与できる」という必要だけれど不安定な状態に持っていく動きを、厚生労働省の内部からつくり出すことは現実には難しいと思われます。外部からの強い圧力がない限りほとんど不可能でしかない、ということになります。

ここで私が厚生労働省に関して書いていることは、あくまで仮説です。きちんと検証するだけの情報があるわけではありません。しかし、「調整文化」という枠で整理してみると、現実に私たちが見ているすべてが遅れ遅れになっている、という結果と「調整文化」がもたらす因果関係とが見事に整合性が取れているのも事実なのです。

日本の将来を「調整文化」の弊害から逃れさせるには、「調整文化」の何たるかを理解し共有しておくことが肝要です。
「調整文化」とは、ガラパゴス的とも称される国、日本に、特異的に育ってきた組織文化なのです。この「調整文化」は日本人の組織における判断や行動に強い作用をもたらします。つまり、日本の高度経済成長を下支えしてきた組織文化でもあると同時に、平成の30年を失われた30年にし、日本が世界から取り残されていく要因をつくっている組織文化でもあるのです。そういう意味で、日本という国が持つ根源的なパワーと緊密に関連している組織文化であると言えます。

今、この日本独自の「調整文化」とどう向き合うかで、私たち日本の未来も決まってきます。
新しい時代を生き抜くには、「調整文化」とみんなでしっかりと向き合うことがまず求められている、ということです。


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