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サハラ砂漠を5日間ラクダと100km歩いた話

もう2024年も終わり。ちょうど1年前のこの日はサハラ砂漠をラクダと現地の遊牧民と歩いていました。
(*今年はちょうどインド・バラナシへ向かっております)

その時に書き溜めていたメモを引っ張り出そう。

サハラ砂漠、5日間。

間違いなく人生最高の経験の1つ。

遊牧民とラクダと、クリスマスイブから5日間男だけで100キロ歩いた旅は一生記憶に残るはず。

衝撃と感動と気づきの連続だったので、備忘録も兼ねて。画像だけでも見て帰ってください。

初日。

砂漠を歩き始めて数時間後にラクダに初めて乗らせてもらって視点が一段階高くなり、視界が変わった時の光景は忘れられない。

見渡す限りの地平線が広がる砂漠を、僕たちキャラバンが隊列を組んでサハラ砂漠を歩いているという事実を初めて視覚を持って現実だと受け止めることが出来て、心のワクワクが止まらなかった。

2日目の夜。

360度地平線の広大すぎる大地にて全くの無音の砂の上に1人佇むと、世界が自分1人になったのような”冷たさ”を感じた。

本当の無音は”しーん”ではなくて”きーん”とか”きゅーん”ってな感じで少し胸が締め付けられるような気がして、そのままずっといたら右耳と左耳が頭のどこかで繋がって引っ付きそうだった。

3日目の夜。

満月と太陽が交互に出て来る太陽と月の巡りにて、過去一の朝日と夕日に身体も心も感動が追いつかない中、衝撃を受けたのが”月の出”と”月の入”。

地平線から上の空の全てをオレンジから青のグラデーションに染め上げる夕日の裏で申し訳なさそうに、でも抜群の存在感でひょっこり顔を出す月の出は輝かしく、冷え切った大地を暖めるために燦然と姿を表す朝日の裏でお役御免と沈んでいく月の入りは寂しそうで華麗だった。

天からの恵であるはずの太陽に苦しめられる砂漠の国では国旗に描かれるのは日出国 日本のような太陽ではなく月が多いというのも納得。

本が読めるほどの月の明るさと、その美しさに素直に驚いたし、いかに普段電気と光に囲まれて生きているかを再認識。

満月の月夜に1人で砂の上を散歩しているときの月光は、田舎町の街灯の親分のようで、いつもそこに必ず存在しているという温かさと自らの光が照らす対象を求める寂しさを感じた。

“I love you”を「月が綺麗ですね」と訳した福沢諭吉を現代人が茶化せるのは知識を得たからだと思っていたけど、実は僕たちは本当の月の美しさを見ていないからかもしれない。

4日目。

全く電波も通じず電源もない完全デジタルデトックスの世界に身を置いて、能動的にも受動的にもあらゆるデジタルと縁を切った。

一番感じたのは、ありきたりだけど、デジタル情報と物理情報の質と量について。

デジタル社会の中で0と1からなるメガやビット単位の情報は、無限大の量を持ち質はピンキリ。

一方、人が己の肉体で感じられる身近な人や自然、モノや動物などの景色の情報は、量は物理的な自分自身の見える範囲で掴み切れるだけ。質は高いのか低いのかよく分からないけど、五感と直感全てを駆動してそこにある事象と自分のリアルで対峙してこそ得られるものはあるはず。

どっちの情報が重要かなんて分からないけど、両方人間、少なくとも平成生まれの自分にとって必要なことだけは明らかだと思う。

仕事とデジタル情報に追われ疲弊する現代人が本当に必要なのは休暇ではなく旅かもしれない。

5日目。

砂漠の冒険も最終日。ミスチルの曲の好きな歌詞を思い出した。

“地平線の先に辿り着いても、新しい地平線が広がるだけ。「もうやめにしようか」自分の胸に聞くと「まだ歩き続けたい」と返事が聞こえたよ”

またいつか、次は大切な人と戻って来たいと思います。

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萩原雅之 / Mαsayuki Hagiwara
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