"ALL_DAY"から学んだ生きる意味。スポーツは奪い合いや貶め合いではない。
2020年5月のこと。
世間はコロナで自粛となり、バスケットができなくなった。
いつ来るかわからない次の試合に向け、私は体が鈍らぬように一人公園で自主練をしていた。
しかし、時間があると人は余計なことを考える。
浮かび上がるのは「なぜバスケをするのか?」という疑問。
そこから導き出される直視したくない答え。
───私のやっているバスケットはただの奪い合いなのではないか?
その疑問と折り合いがつかないまま、私はとあるきっかけで『ALL_DAY』に出場することになる。
相手は超強豪チームsunday crew。
マッチアップはボスハンドダンクのできる185cmのシューター。
対する私は177cm,61kgの大した実績のない一般人。
──試合内容によっては打ちのめされて引退するかもしれない。
そんな不安を抱えながら臨んだこの試合。
そこで私に起こった事を話したいと思う。
◆◆◆◆◆
────バスケも生きることも奪い合い
そう考え始めたのは2020年5月のこと。
世間はコロナによって静まり返り、プロアマ問わず全てのプレーヤーがバスケットボールをできなくなって2ヶ月間が経った。
私は中学からバスケを始めた。
学生時代に実績はほとんど残せなかったが、30代になった今でもバスケを続けている。
"社会人バスケ"や"草バスケ"と呼ばれるカテゴリーだ。
私はいつ来るかわからないコロナが明けた後のバスケに向け、公園で1人自主練をしていた。
しかし、時間がありすぎると人は余計な事を考える。
この自主練は何のため?
自分のバスケは何のため?
そう考えるうちに、バスケットボールは残酷なスポーツだと考えるようになった。
誰だってターンオーバーやシュートミスをしてチームのテンションを下げたくないし、負けたくないと考える。
その痛みを知っているから次はシュートを決めたい、ミスを減らしたいと望み、勝利に向かう。
だから私たちは練習する。
しかし、私たちがシュートを決めることは、相手のDFの失敗と同義である。
これがフィギュアスケートや弓道ならば自分達のプレーに対して絶対評価で点数が付けられ、その点数で競い合うことができる。
バスケットボールのような競技は、戦う両者の成功と失敗とが表裏一体だ。
自分がDFを成功させ、シュートを決めることは、相手にターンオーバーやシュートミスをさせ、DFを崩壊させる行為である。
もちろん私たちは純粋にバスケットボールが好きでプレーを成功させた時の高揚感を求めている。
相手を貶めたがっている訳では無い。
しかし、結果的にはそういう事になる。
自分の成功が相手の失敗。
それがバスケだ。
だからバスケットボールは残酷だと思った。
「自分を高めても、敗北の無力感を感じるのが自分から相手に変わるだけ。」
そう考えるようになってバスケットボールの熱が徐々に冷め、引退を考えるようになった。
プロであれば話は別だ。
バスケに多大な時間を、人生を、命を費やしてきた彼らが織り成す試合は質が高く、作り込みも奥深い。
彼らの試合はある種の芸術作品のようで、それは観ている人達の日常を豊かにする娯楽でもあり、彼らのプレーで語る生き様が、観る人によっては自己啓発にもなったりする。
故に経済的価値を生み、人々に影響を与える彼らのバスケットボールには意味がある。
しかし私の草バスケにそれはない。
経済的価値を生まず、観戦者もいない。
誰かの人生を豊かにするような影響を与えているわけではない私のバスケに何の意味がある?
世間が観ていない草バスケという狭い世界で、
プレーが決まる高揚感や勝利の達成感を求める我欲を満たす奪い合いに勝つ為に、
私は今日もせっせと練習に励んでいる。
───私のやっているバスケットボールはただの奪い合いなのではないか?
◆◆◆◆◆
しかし、それでもバスケを辞めることはできなかった。
永いこと自分の生活の中心だったバスケを手放して、一体自分に何が残るのかが不安だった。
とはいえ、以前ほど向上心を持って取り組むことはできず、迷いを抱えながら「依存」のような距離感で私とバスケの関係は続いていく。
「自分が頑張るほど、それは誰かから奪うことになる」
この理論はこれ以降。病のように私のバスケ以外の生活にも転移し、蝕んでいった。
例えば仕事。私がスキルをつけるほど、それは私がいなければ仕事を取れていたであろう他の誰かのポストを奪うことになるかもしれない、とか。
そもそも、私はこれまでも試合や就活や受験で少なからず、その"誰か"を蹴落としてきた。
そして、この社会は競争を推奨している。
こんなことは今更のことで、ある程度の年齢になれば誰だって気付くこと。
私も知らなくはなかったが、この時この現実をバスケットから再認識した自分には深く刺さった。
────バスケどころか、生きることすら奪い合いなのではないか?
「なぜ自分はバスケを続けているのか?」という疑問は
「なぜ自分は生き続けるのか?」という疑問へと肥大化していた。
◆◆◆◆◆
8月。
コロナ自粛が徐々に緩和され、近所の体育館も開放されて2ヶ月がたった頃。
私は「変わらず」バスケを続けていた。
週1~2日程度の頻度で体育館へ行きプレーをする、その行動自体は確かに変わっていなかった。
ただ、バスケとの精神的な距離感は大きく変わっていた。
家に居続けては不安が大きくなる。
でも、バスケをすれば一時的にそういったモヤモヤから解放される。
体育館に行く理由はそれだけだった。
9月。
練習試合の機会があり、その日は20点差をつけて勝った。
久々の試合。いつもなら楽しいはずだった。
しかし、その時の私はリードをしながら「今、相手は辛いだろうな」と考えてしまい、純粋に楽しめなかった。
その他にも、上手くなってチームメイトの仕事を奪わないように、バスケと一定の距離を保っていた。
もう前ほどの熱量はそこに無かった。
◆◆◆◆◆
そんな私のバスケにも唯一、人に与えることができていると思うものがある。
それが富山グラウジーズの解説だ。
Bリーグの2020-21シーズンが10月に無事に開幕し、例年通りに試合解説をツイートすると、多くのいいねをもらえた。
「わかりやすい」と言ってもらえる。
私のバスケットが富山ブースターの方々の観戦に役立っていることは支えだった。
しかし、それでも疑問は拭いきれない。
解説は、プレーをやめてもできること。
私の草バスケの意味を立証するものではない。
これまで積み上げてきたバスケがこれに活かされているとは思う。
でも、今後も続ける意味はない。
やはり、「引退すべきではないか?」という疑問は拭いされなかった。
◆◆◆◆◆
2020年10月中旬。
突然とあるバスケの友人から連絡が来た。
"ALL_DAY"に誘われたのだ。
"ALL_DAY"と言えば、普段代々木公園のストリートでプレーをする凄腕のボーラーや、somecityに出場するプロ選手など、ハイレベルな選手達が集う大会だ。
(岩沢のイメージではあるが、大きくは間違っていない、と思う)
私のような経歴も実力もない選手には場違いな世界。
それも自分の中で過去一番バスケ熱の冷めきっている今の自分がそこへ行くのは失礼な事だと思った。
なぜ、今なのか。
もっと違うタイミングなら良かったのに。
そんなことを思ったが、私はこの誘いを受けることにした。
全く足を踏み入れたことの無い場所だからこそ、迷いながらバスケにしがみつく今の日常を変えるきっかけが何かあるかもしれない。
しかし同時に、
もしかしたら圧倒的な力の差を見せつけられ、自分の積み上げてきたバスケが無価値なものに感じられて辞めてしまうかもしれない。
そんな不安の方が大きかった。
でも、たとえそうなったとしても、
このままズルズルとバスケを続けるよりいいのではないかと思った。
◆◆◆◆◆
10月末。豊洲。
例年では代々木公園が会場らしいが、今年は豊洲のストリートコートだった。
大会はトーナメント形式。7チームでトーナメントを行い、勝ち上がった1チームが別日の本戦へ進出となる。
(1試合あたり12分一本勝負)
初戦の相手はsundaycrewという有名クラブだった。(超強い)
対して私の友人のチームはtwitterで繋がったごく普通の草バスケ民の集いだった。(友人はインカレ経験者で上手い)
そして試合開始の時刻となり、整列をする。
相手チームと対面すると体格差は一目瞭然。
相手は身長2mほどの外国人センターを筆頭に皆身長が大きい。
対するこちらの最高身長は183cm。
私のマッチアップする相手はというと、ボスハンドでダンクができる身長185cmほどのシューター。(岩沢は177cm,61kgのガード)
そして試合が始まった。
◆◆◆◆◆
確か、開始3分ほどだったと思う。
当然何も波乱は起こらない。
スコアは早々に10-0になった。
個人能力の差は歴然だったが、それ以上にsundaycrewは堅実な良いチームバスケットをするチームだった。
5人が効果的に動き、1on1とパッシングが繰り返され、しっかりとノーマークにパスが回される。
そして確実にシュートを決めてくる。
ローテーションで対応するも、私がスイッチをしてマークするのはこれまた185cmくらいのガッチリした黒人選手でお手上げ状態。(ちなみにガードの選手)
対し、こちらは初対面のメンバーもいる者同士の集いでボール運びからのエントリーすら不安定だった。
さらに、"ストリートコートへの慣れ"にも差があった。
こちらは跳ね方が明らかに異なるボードに戸惑いイージーシュートすらリングに嫌われる中、相手は太陽の光が逆光となる角度のスリーポイントシュートすら決めていく。
隙がない。まさに「フルボッコ」である。
普段の区民大会であれば、このような大敗をしたときは酷く打ちのめされる。
点差がついた時の相手は遊び出し、ベンチは余裕ムードになり、雑にプレーをしながらもリードの貯金を使って勝利を奪っていく。
そんな時、自分の積み上げてきたバスケの欠陥に、レベルの低さに、落胆をしてしまうのだ。
しかし、この時はそういうネガティブな気持ちにならなかった。
なぜなら彼らのプレーは誠実だったのだ。
個の能力で圧倒できるにも関わらず、5人で綺麗なチームオフェンスをし、そこに遊びは無い。
ディフェンスも大量リードしている私達に、肩で息をしながらオールコートで守ってくる。
最後まで一切手を抜かず、私達を見下すプレーをしないのだ。
そこには私達へのリスペクトが感じられた。
コートで手合わせをする、相手に対するリスペクトがあるように感じたのだ。
───かっこいいな
素直にそう思った。
───1本でいいからこの人達から点を決めたいし、止めてやりたい
不思議とワクワクした気持ちが湧き起こってきた。
そう思わせるバスケだった。
しかし、得点・アシスト・スチール・ブロックといったスタッツは残せなかった。
レイアップまで持っていけてもブロックに阻まれ、相手のドリブルやスキップパスを読んで僅かにボールをチップできてもスチールには至らず。
そして5-26の完敗。
それでも、試合が終わる頃には心にバスケ熱の火が灯っていた。
◆◆◆◆◆
最後に整列の際、相手の選手が私に声を掛けてきた。
「顎に当たったやつ、大丈夫ですか?」
彼のドライブに対して私がチャージングを取ろうとした際、彼の肘が顎に入ったのだ。
(ちなみにブロッキングの判定になった)
包み隠さず言うと、それまで私はこういうストリートの人達には偏見があり、「そんな貧相な体でこの場所に来る方が悪い」くらいの事を言う人達だと思っていた。
(私もそういう覚悟を持って試合に来ていた)
しかし、実際は場違いにフィジカルの弱いこんな選手の体でも気遣ってくれる。
「全然大丈夫ですよ。ありがとうございます。」
やはりコートで手合わせした相手に対するリスペクトがあるように感じた。
◆◆◆◆◆
彼らのバスケをもう少し見たくなった私は、自分の試合が終わった後も会場に残って後の試合を全て観た。
サンデークルーに限らず他のチームの試合も素晴らしかった。
私と同じような身長と体格なのにとんでもない身体能力とスキルで立派にこの場所で戦ってる選手もいた。
中にはそこまで上手くない選手もいたが、自分の役割を果たそうと頑張っていて、チームもその人に十分なプレータイムを与えていた。
まるで磨き上げてきた自分の作品を披露しあうような。
さらに手合わせする相手とナイスゲームを作り上げることを楽しむような。
そんな楽しい世界だった。
いや、スポーツとはそもそもそういうものなのかもしれない。
自分が知らなかっただけで。
────バスケットボールは奪い合いでも貶め合いでもない。だから、好きでいいし、頑張っていい。
ALL_DAYはそんな安心感をくれるような優しい世界だった。
◆◆◆◆◆
そういえば聞いたことがある。
人が死ぬ間際に思う、後悔すること第1位。
それは、"挑戦しなかったこと" だそうだ。
想像してみて確かに、と思う。
「まもなく自分が死ぬ」と想像してみる。
いずれ命に終わりが来ると知っていながらなぜもっと挑戦をしなかった?
好きなことに打ち込み、なぜ未知の景色を見ようとしなかったのか?
失敗や変化によって今の日常が失われることが怖いから?
慌てずともその日常は寿命によっていずれ失われるというのに。
ならどうして限られた時間で多くを見てみようと思わない?
経済的価値を生まないから意味がない?
でも彼らの、互いに良い影響を与え合うバスケには意味があった。
なら、やりたいこと、好きなことを追求してみればいいじゃないか。
バスケットボールは取り組み方を間違えなければ奪い合いや貶め合いにはならず、与え合うことが出来る。
自分のバスケットボールも誰かに良い影響を与えられる可能性があるから意味がある。
もう、バスケットボールと一定の距離を持つ必要はない。
好きでいいし、もっとのめり込んでいいのだと思えた。
◆◆◆◆◆
その2週間後。
私は自分のバスケにも、富山の解説にも、迷いなく打ち込むようになっていた。
私はそれまで富山の解説はTwitterで呟く程度だったが、富山vs渋谷について5000字程度のボリュームの解説記事を発信した。
すると、とあるフォロワーの方から「有料でも読みたい」という声をもらった。
さらにはサポート(投げ銭システム)でお金を払ってくれる人まで現れた。
そして今では毎試合、有料の試合解説記事を書いて多くの方にご購読して頂いている。(感謝)
自分のプレイに関しても練習の取り組み方が変わり、この3ヶ月で少し上手くなったように思う。
チームメイトには出し惜しみなくスキルや知識を共有し、知り合いのチームや練習試合の相手にも自分の知識からアドバイスをした。
何人かから感謝の言葉を貰ったり、「最近の岩沢から刺激を受けた」と仲間に言われたりした。
────自分のバスケはなんのため?
追求して、見たことの無い景色を楽しむため。
そしてあの時、ALL_DAYにいた彼らに自分が与えてもらったように、自分も他の人へ良い影響を与えるため。
─スポーツは奪い合いなのではないか?
─生きることは奪い合いなのではないか?
─自分を高めることに何の意味があるのか?
この記事が、そんな疑問に苦しむ人達の日常を変えるきっかけになればとても嬉しく思う。
ここまで読んでいただきありがとうございました。