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プラモは制作するもの?製作するもの?

ツイッターのタイムラインに

「プラモを製作するという表記を『制作』という表記に変えました」

なんてツィート(おぼろげな記憶)があって、

さて、どちらなのかなと考えた。

「制作」と「製作」の意味の違いは、ざっくり言うと


芸術作品、表現にかかわるものを作るのが「制作」。

実用的なものを作る、工業や商業ベースに関わる作る行為が「製作」。


原則的な意味はこうなんだけど、実際はあいまいに使われてて、映画製作会社もあれば映画制作会社なんてものもある。

映画制作会社の場合、「いや俺、金なんて関係ないから。芸術だから。芸術のためにしか作ってないから」というプライドがあるのかもしれない。なんも考えないでつけてるのかもしれない。実際はそんなところだと思う。


いずれにせよ、製作の場合は量産されるもの、あるいはお客さんに依頼されて会社が作るもの、商業と工業が絡んだ作る行為。

制作という場合は、一点物、作るというより創るものといったほうが馴染みやすい言葉だろう。ただ、商業に絡まないかといえばそうでもないのがややこしい。絵画だって売れるわけだし、絵描きは絵を売って食っていくわけだから。依頼があって描く場合もあるし、そんなときは制作と制作の境目は極めて曖昧になってくる。


では、プラモはどうなんだろう。制作するものなのか。あるいは製作するものなか。

僕は今まで工業的な意識で作ってきたわけでなく、趣味として、ときには表現行為として作ってきた感覚があったのでプラモは制作と表記してきたけど、近頃はオークションで売るために作ることもあるので、これは製作だよなぁなどと自問しつつ、いや楽しんでも作ってますよという変な意地もあって「制作」という言葉を使い続けてきた。


いや、待てよ。そもそもプラモに制作あるいは製作なんて言葉を使うこと自体が馴染まないんじゃないの、とも思い始めてきた。


プラモデルはそもそも「作る」ものじゃない。ましてや「創る」ものなんかではない。あくまで「組み立てる」商品だったよな。


ただし、ここからが厄介だなぁと思う。


プラモを組み立てるとだけ言いたくない自分がいる。

完成したプラモを「完成品」とではなく「作品」と言いたい自分がいる。


めんどくさい奴だなぁと我ながら思うのだけど、単に組み立ててるわけじゃないんだよ、ってどこかで言いたいのだと思う。


パチパチと組み立てて出来上がったのではなくて、そこにはいろんな加工を加えていろんな表現方法を施しているのですよ、という気持ちがあるから、完成品ではなく「作品」と言いたくなる。それがモデラーの心情なんじゃないかなと思うのです。僕だけの気持ちだったら申し訳ないけれど。


そういうことを考えた上でモデラーのやっていること、というのはとどのつまりクリエイターではなくアレンジャーだよな、ということにも気づく。

そこに一次制作をされたデザイナーへの劣等感を感じるけれど、ちょっと待て。たしかにおいしい野菜を作った農家もえらいけど、ちゃんと料理したシェフもいるからおいしい物が食べられるんだよな。そう考えるとアレンジャーだって捨てたものじゃない。


そんな自尊心を持ってこれからも「制作」という言葉を使っていこう。

などと思ったけれど、プラモデルは趣味で楽しんでるという気持ちも大切にしたいので結論としては

「プラモデルをこしらえる」

程度にしていこうなどと思ったりしたのでありました。


なんだか控えめ…。弱腰…。





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