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「そんなの当たり前」という知識だけの危険性。

人生を充実させる方法から最も遠いところにあるものの一つに音楽理論があります。

もしオフィスワークを充実させるならBGMをモーツァルトにするのは良いかもしれない。コーヒータイムにジャズを聞くのもオススメだ。とくにセロニアスモンクなんて最高だ。

オフの日には映画なんていいかもしれない。アウトドアが好きなら釣りや登山も良いかもしれない。いや、友人とレストランで日頃の思い通りにいかない、あんなことやこんなことを笑いながら話すのも楽しいだろう。

家に帰れば家族サービスもいいと思う。たまには自分で夕食を作ってみるのと会話がさらに弾むきっかけにもなるし、長年連れ添ったその人はなれない料理にクスッと笑ってくれるはずだ。

さて、音楽理論はどこにも入る余地がない。もう足りているんだ。

困ったことに僕はその音楽理論が大好きなまま生きていきた。音大でも勉強をしなくてもなぜか成績が良かった唯一の科目だ。

さて、そんな人生の充実に最も遠いところにある(この例えはもういい加減やめようと思う)音楽理論の本を読んでいて気になったことがあった。

ところで、音楽理論の歴史は古く紀元前のピタゴラスまで簡単に遡ることができる。その音楽理論に大事な音程に関するよく知られているピタゴラスの逸話がある。

聴覚に思いを巡らせていたピタゴラスが鍛冶屋の前を通りかかった時、ハンマーで鉄を叩く音を聞いてふと思った。「ハンマーの重さによって音は変わるのではないか」と。そこで重さを2倍、3/4倍などに変えて鉄を叩くとそれに伴って音程が協和に響いた。自宅に帰り弦に重しをつけて吊るし、それを弾いてみるとさっきの音程の件は確信に変わった。

この逸話が本当だとすればそもそもピタゴラスは勘違いをしていたことになる。ハンマーの重さで音は変わらないからだ。

その勘違いが功を奏してかはわからないが弦の長さによって音が変わることを見つけた。そして協和な音程はシンプルな数で表せることも見つけた。

その時によく説明に出てくるのがモノコルドの分割だ。

モノコルドとはモノ(一つ)とコルド(分割)という一本の長さの弦を分割することだ。

そしてそれはモノコードとして音の実験教材としても安価に提供されている。

音楽理論が大好きで人生が充実していないと思われる私は(そんなことはないはずだ、きっと…)、そのモノコードをスマホで何気なくみてハッとした。

「試してみたい。」

音楽理論好きならピタゴラスが見つけた音程を試して実感しなければいけない、そういう思いに駆られた。

音楽理論が好きな私は今までレッスン室で「音程とは」と何度も真理のように語ってきた。しかし私は安価に提供されているにもかかわらずモノコードでそれを確認したことがない。

「何たることか!」

早速購入した。組み立てキットになっているので組み立て早速実際の音程は真理の通りか試した。

愕然とした。なぜなら全然思ったとおりではなかった。

私の知っている真理(試したことはない)では弦の半分の長さで元の弦の1オクターブ高い音が出るはずなのだ。しかし組み上げたモノコードではそれがでない!数センチ横にずらすとオクターブ上の音が出る。

おかしい。ピタゴラスは協和な音程をシンプルな整数にできることを見つけている。1/2の長さでオクターブ。実にシンプルだ。

だけど私の目の前のモノコード(アイキャッチのそれ)は数センチずらさなければでない。つまり…

「シンプルな整数にならない!!」

そうすると、色々思惑を巡らす。例えば「組み立てキットを正確に組み上げてないから」、「精度が高いモノコードなら正確な音程が出る」、「弦の長さの基準は〇〇から〇〇までで考える」など。

いくつか問題点はあるかもしれないし、真理を導き出すにはまだ知らない要素があるのかもしれない。

しかし、僕は答えが決まっている中でそこに向かっている。つまり確認作業をしているだけだ。だから「おかしい!」といっている。

最初に見つけた人は「おかしい!」ということは難しい。そもそもそんな真理はないかもしれないから。ましてや他の要素が揃ってないだけなど考えつかない。

そうなると「僕は一体何を信じていたのだろう」ということになる。

「1/2の長さでオクターブ」という情報を信じきっていた。もちろん試しはいない。しかし音楽を学び始めた時から今まで20年は信じていたかもしれない。

ちなみにピタゴラスの逸話のハンマーの部分は16世紀ほどにようやくおかしいことが指摘されている。それまではみんなハンマーのくだりは信じていたのだろうか。

ハンマーを試したものはいなかったのだろうか。1000年以上も?

それだけ実際に試す人は少ないのだろう。知った気になる方が楽だしコスパは最高だ。確認なんて面倒なだけでもある。

みんながそう思ってるなら確認をせずにそのまま信じてても困ることはない。新たに発見されたらその時信じていけばいい。

きっとそんな流れの中で現象から原理を導き出すニュートンなどが出てきたのだろう。

僕はニュートンではないしそんな偉大な人になれないけど、試してみた。そしたら違う!ってことになった。

しかし科学の世界ではマラン・メルセンヌがメルセンヌの法則という弦の振動数に関する数式を発表し、のちに物理学者のジョゼフ・ソバールがさらに精度を高めた結果を出している。

科学の世界ではやっぱり1/2は条件はあるけどあっているようだ。

それも本当かどうかはもはやわからない。どこかで信じるしかない。世界の物理学者、科学者の多くが正しいといえば僕は信じるよりほかない。

しかし僕は信じても行動に移すかは別だ。メタ分析を信じても行動に移すかは別だ。

何かのメタ分析で「生涯の伴侶はこの人が最適」と出ても信じる思うが行動はしないだろう。

きっと信じることはそんなに重要じゃないのかもしれない。行動することのほうが大切かもしれない。

宗教の歴史を調べていた時に種類によっては「信じればいい、想えばいい」と説くものもあれば、行為を重視するものもある。

そうなると「信じる」と「行動する」は思想の一つなのかもしれない。

現在の僕は行動することに重きを置いている。例えば僕は人から嫌われていても気にしない。その人が僕の用件を聞いくれるなら嫌われてようと関係ないからだ。

一方で用件を聞いてくれないなら信じてくれていても困る。

信じることは精神的で、行動することは現実的だ。もっと現代にすると信じることはメタバース的で、行動することはリアル的だろうか。

行動することによる自分へのフィードバックと信じることによる自分へのフィードバックは大きく違う気がする。

リアルとメタバースを分ける必要がないように、行動も信じることもわける必要はないのかもしれない。

だから信じながらも別の行動をできるのだろう。その辻褄の合わないことところが面白いところなような気がする。しっくりいかないところが1番面白いところな気がしている。

不思議だ。いつからピタッとなるものと思っていたのだろう。

よし、ひっかかりをそのままにしていこうと思う。

ちなみにモノコードの1/2は長さを測る箇所を間違えていたみたいなのと、楽音としての音程がそもそもそこまで綺麗に出るモノではないようなので誤差はあるようでした。

たしかに本を見ると「楽音」という文字がででした。楽音とは簡単に言うと楽器の音です。振動数が割とシンプルなものです。

なるほど。やっぱ他にも要素があったんだなぁ。見つけた人たちすごいな。

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