21/8/18 ポキポキと折れる鉛筆の音

(生活をしていると型式ばった文章にするほどでもないけれど、落書き帳に書き留めておくには少し惜しいような雑感がそこいらに散らばっていることに気がつく。僕は昔から日記を書くことの意義が全くわからなかったけれどきっと多分、そういう雑感の総体を日記と呼ぶのだと気がついた。しかし単に『日記』と名前をつけるだけではあまりにも淡白なので『コンビニのハンバーガー』としてマガジンにしてみる。コンビニのハンバーガーが好きな理由もいつか『コンビニのハンバーガー』に書けたらと思う)

筆を折るという慣用句がある。文筆活動を止めるという意味だ。僕は活動と呼べるほどの文筆をしていないし、明日明後日、もっと先にまた書きたくなるかもしれなから筆を折るという大仰な言葉は使わないけれど、もっと小規模な”中断”を繰り返している。例えて言うなら鉛筆を折る、くらいだろうか。
僕は物事をやり遂げることが苦手だ。それはおそらく生来のもので、物心がついた頃にはすでにそうだったのだと思う。小学校でも担任の先生に、「君は始める時のアイデアは悪くないのに終わりがダメだね」と言われたこともあるし、「感想文のタイトルだけ良い」と言われたこともある。とにかく、僕は”やり遂げる”ができない。
良く言えばそれは0から1を生み出すことに長けている、ということになるかもしれないが、有終の美という言葉があるように、結局のところ人は最終結果しか見ないのだ。そういう意味において僕はあまりにも稚拙だし非生産的だと思う。このnoteのアカウントに書きかけで未公開の記事が山のように眠っていることもまた、僕のこういう性質から来ている。
もちろん、僕はどうしてこうもやり遂げられないのか、といういかにも自己愛と憐憫に満ち満ちた問いについて考えたことがある。しかしやはりその問いに対する思考を”やり遂げる”ことができないので、何らかの回答を得たことはない。
僕のこの性質は実は人生に対して根深い問題を生んでいるということが最近になって言語化できるようになってきた。それは換言すれば、偶然的成長と選択的成長という言葉に集約されるのだけど、これについてはまたいつか書きたいと思っている。とにかく、このやり遂げられない病は過去と現在、そしておそらくは未来にわたって人生の道程に計り知れない影響を及ぼすのだと思う。
そんなふうに主語を大きくしてみると、僕の人生には必ず”終わり”が存在するのだということに気がつく。それが能動的に”終わらせる”類のものなのか、または受動的に”終わる”ものなのかは定かではないが、必ず”終わり”がくることは間違いない。そしてきっと、僕はその最期がくる時まで”やり遂げられない”たくさんの物事を抱えているのだと思う、人生そのものもその一つかもしれない。本意じゃないけど。
ほらまた、こうやって書いていると、どこからか鉛筆の芯が折れる音が聞こえてきた。ポキポキ。でも今回ばかりは”中断”されたまま公開してみようと思う。やり遂げられない自分を少しでも是認するために。

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