21/10/31 1000円カットで世間話するおっさんはタイムトラベラーなのか
僕は見た目に頓着のない方で、散髪もいわゆる1000円カットなのだけれど、順番を待つ間や散髪されている間、客の会話が気になることがある。少なくとも僕の行っている店の客層は大体が”おっさん”と形容すべき中年の男性なのだが、その一部が散髪中に店員とものすごく親密に話すのだ。僕はその光景に違和感を覚える。
違和感の正体は明白で、”安価な散髪屋で身の上話をする”という行為は、例えば食事に敷衍すれば”牛丼屋で店員と話す”ことに対応している。つまり、外部化された摂食行動や散髪に想定されていない接客や付加価値を求めているという状況に違和感があるのだ。そもそも安価に短時間で”作業的”に終えられることがウリの店舗でだらだら店員と会話するなよ、という話である。(もちろん、両者が同意している限り僕が口を出す話ではないのだけれど)
考えてみると、ファスト〇〇と呼ばれる一連のサービス形態は家庭の外部化の最たるものだ。食事や散髪、服飾に至るまで技術や経済の発展に伴って外部化されてきた作業がたどり着いた”最適解”の一つだと言えるかもしれない。
そしてその最適化を達成するためには常に属人性を排除したシステム構築が求められていることもまた明らかなのではないかと思う。牛丼屋の店員の顔をイチイチ覚えていないし、散髪屋でも基本的に会話は少ない。服飾に関しても寂れた商店街にあった、”ずっと閉店セールしてる店”での買い物と退避すれば、ファストファッションの買い物にはほとんど人間的交流はなくなっている。
(おそらくはすでに多くの人々がそれぞれの文脈で指摘してきたことだと思われるが)家庭の外部化とその最適化は常に属人性の排除を含意していて、差異はあれど時代とともにサービスが人間性を消失しているということの原因の一つかもしれない。これは技術発展に伴う豊かさと人間性の喪失という自明な真理を導くに過ぎないのだが、それでもやはりバリカンの音に乗ってそんなことを感じられるのは面白いと思ったりもする。
僕はこの議論についてどちらの方が良いかという結論を出すつもりはないし、そもそもそれは問題の定式化を失敗していると考えている。先に、”最適化”という言葉を使ったが、実はこれは本質的には何も説明していないのだ。(僕の抱えているより大きな妄想につながるので詳しくは別で書きたいが)最適化問題という時、本質的に問題となるのは解決手法よりもまず問題設定、つまり”何を最適化するか”ということである。
平たく言えば、確かにファスト〇〇は物質的な目的を最適化したかもしれないが、それは逆に言えば属人性やコミュニケーションといった”昭和的”なパラメタを考慮しない最適化になっている。だから『人間性を喪失してしまう技術は最適化に失敗している』という言説はそもそも問題設定と手法が”ねじれ”ていて適切な議論になっていない。換言すれば1000円カットが昭和的世界に生まれていたら、きっと駆逐されていただろうという予想が立つわけだ。
また逆に、今後生まれてくる経済現象が”何を最適化しているのか”という観点は社会を読み解く一つの切り口になっていて、例えば既存文脈では最適化されていないように見える諸々が実はうまくいく場合があるのではないかと妄想していたりする。
ちなみに僕はずっと1000円カットで隣に座る”昭和的”おしゃべりオヤジをタイムトラベラーと揶揄していたのだが、翻ってみれば安い居酒屋で延々と店主と話し込むことに心地よさを感じている。僕の中にも昭和への憧憬が流れているということだろうか。おっさんへの冷笑はいつでも自分に返ってくるものだ。世知辛い。おわり。
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