21/9/21 文化祭当日を楽しむために人は結婚するのだ

これは文化祭の話ではないし、場合によっては結婚の話でもない。強いて言えばこれはカレーライスの話だ。こういうふうに書くとおそらく読み始めてくれた全員のロジカルブレインが崩壊すると思うけれど、むしろそこいらに散らばった脳味噌をちゃんと一個にするためにこのnoteを読んで欲しい。

僕は今日、圧倒的にカレーの口だ。しかもファストフード店で食べられるようなサラサラのカレーではなくて、実家で出されるタイプのゴロゴロでドロドロなカレーが食べたい。では自分で作れば良いではないかという話になるわけだが、カレーを作る時、出来上がった頃にはなんだかもう食欲が失せ始めているのは僕だけだろうか。
カレー作成にはいくつかの工程がある。勢い勇んで食材を買ってきて、皮をむき、具材を切って鍋に入れる。それから満足のいくまで煮込んで、カレールーを落とす。一連を完遂するまで数十分から1時間くらいか。
僕のカレー欲はレジに並んだ頃から徐々に上がり始め、具材を煮込み始めたくらいで大体ピークに達する。そのあとはどうしてか下落の一途を辿って、ルーが溶け切った頃にはなんだかもう食後の雰囲気さえしているのだ。
その”中折れ”現象がどうして発生するのか、明確な答えはこれを書いている今もないのだけれど、僕はどうせまた”中折れ”することがわかっているので、最近は全然ゴロゴロカレーを作らなくなってしまった。
カレーの口を抱えながらそんなことを考えていると、これは構造的に高校の文化祭に似ているのではないかと思い始めた。僕は高校三年生の文化祭で劇をやったのだけれど、その時も練習ばかりが楽しくて当日の事はほとんど覚えていない。なんかもう、本番を目前にした当日の朝には”やり切った感”があった気すらしている。

もしかすると人間は当初の目的に対して、プロセスがあまりにも長いと、その途中で主客転倒を起こしてしまうのではないか。考えてみればカレーを食べることよりも作ることの方が圧倒的に難しいし、劇を演じることより演じられるようになることの方が圧倒的に難しい。プロセスに乗っかるカロリーが高すぎるのだ。プロセスに対して目的が十分に”高カロリー”でないかぎり、主客は容易にひっくり返る。このままだと僕はもう一生、ゴロゴロカレーを食べられない。

問題を解決するためには、プロセスを簡略化するか、または目的を肥大化させる必要がある。劇に関して言えば、練習期間を短くするか、または文化祭ではなくて劇団四季公演にするかみたいな話になるわけだ。
それで、カレーに関してももちろんロジック自体は同じで、僕がゴロゴロカレーにありつくには、”作る”行為を簡単化してしまうか、”食べる”行為に重みを持たせるかしかない。
と考えると、自然に(ああ、もしかしてだから人は結婚するのかな)なんてことを思い浮かべる。誰かに作ってもらえれば”作る”行為はなくなるし、誰かに食べさせてあげれば”食べる”行為の意味は大きくなる。ものすごく陳腐でドラマチックでもなんでもない結論だけど、もしかして往年のプロポーズ文句である「毎朝君の味噌汁が飲みたい」って、そういうことだったりするのだろうか。

僕らは、カレーを食べるという文化祭当日を楽しむために、誰かと出会い、誰かと暮らし、そして誰かと結婚するのかもしれない。終わり。

追記。書けばスッキリすると思ったのにカレーの口がカレーの口のままだ。

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