見出し画像

万日 身体と向き合えば〜治療家 内海将史

はじめに
 東京代官山にある、私が知る中で1番かっこよかった本屋のテラス席、私たちは週末になると何度も同じ夢を語り合った。中でも内海将史の夢はありありと情景が浮き上がるほどに克明だった。

 内海将史の夢。それは、日の丸を背負い、世界を駆けるスポーツ選手たちを、身体という側面から支える治療家になること。当時すでに渋谷南平台という日本屈指の一等地に店を構え、地元のお客様に愛される鍼灸サロンを構えている彼の、それでも満足せず先進しようという前のめりな姿勢と、あの豪快な笑い声に、立ち止まるなと奮い立たされたのは私たちだけではなかっただろう。そして、これからも彼に癒され、勇気を持って前進する人は世界中に増えていくのだろう。

【目次】
序章
1章 劣等感
2章 勝ちへの好奇心
3章 サッカー王国
4章 折れる。
5章 サクラサカセル
6章 クサる
7章 熱中
8章 情熱
9章 海外留学
10章 支え
11章 運命 
あとがき

序章

 世界をまたにかける鍼灸師がいる。
 2021年春、そんな彼に一つのオファーが舞いこむ。
「ベトナムに新しい大きな病院を開業する。そこで、ベトナムで初めて日本の鍼灸・整体を治療に取り入れたいと考えているのだが、治療家として内海の力を貸してくれないか?」
専門学校時代の恩師からの電話は思いもよらない内容だった。
「わぁー、楽しそうですね!ぜひ詳しくお話聞かせてください!行きたいです!」
こういう時、物おじせず相手よりもさらに前のめりになる内海の姿勢は、話す側のテンションを大いに上げてくれる。この時もまた、ベトナムに彼を誘った恩師と、その仕事の詳細だけでなく、互いの今後の天望や夢について熱く語り合ったことは言うまでもない。
 国内にも医院を持ち、従業員を抱え、イギリスの大学でスポーツ科学の修士をとり、実業家としても、治療家としても成功を収めているかに見える彼だが、彼の挑戦は留まることはない。そして次なる挑戦はベトナム。今また新たなステージへと世界にこまを薦めようとしている。

 宮本武蔵の言葉に「千日の稽古を持って鍛となし、万日の稽古を持って錬となす」という言葉がある。『千日やり続けることで物事は役に立つようになり、万日やり続けなければより良いものに昇華しない』という意味だ。将史の身体・解剖学への向き合い方こそ、まさにこの言葉の通りである。初めから器用になんでもこなせるタイプではない彼。だからこそ常にノートを持ち歩き、気づきを全て文字に残し、毎日それと向き合い続ける。そしてその手で人々をいやし、勇気を持って力強くその人たちの背中を押し上げる。

第1章 劣等感

 このお話の主人公である内海少年。小学校4年生の時、彼のクラスには、全く同じ苗字の内海くんという男の子がもう一人いた。出席番号はもちろん隣同士。そんなこんなで内海少年と内海くんはとても仲が良かった。
 面白くて、話が上手で、とても頭が良い、自分ではない内海くん。
いつしか彼は『秀才の内海くん』と呼ばれるようになっていた。
 自分はそうではない方の内海くん。なんだかいい気分ではなかったが、勉強が得意ではなかったし、敵う気も毛頭しなかった。内海少年の心には人生でおそらく初めて感じる劣等感という感情が渦巻き始める。
「なかよしの友だちなのにそんな気持ちになるなんて、きっとよくない!」
何度も蓋をしては、また心ない周りの声に顔を出すを繰り返すその感情に、なんだか自分が嫌なヤツに思えて、心がムズムズと居心地悪かった。
 そんな小さな劣等感が内海少年の心に芽生えた頃、彼は学校のグラウンドでサッカーに出会う。友達と毎日ボールを追いかける時間も、走ると感じる風も、授業よりも濃く長く夢中で友だちと過ごす時間も、とにかくサッカーに触れている時間がとにかく楽しくて、みるみる内にどんどんハマっていった。そんな日々が続くと、ある時クラスで自分の名前につく冠言葉が変わった。
『サッカーの内海くん』
嬉しかった。秀才の内海くんとは別の世界で評価されていると感じ、自分に自信が持てる気がした。友だちと濃く深く付き合える時間と、自信を与えてくれるサッカーに、内海少年はどんどんのめり込んでいった。

2章 勝ちへの好奇心

 中学2年生の頃、Jリーグの開幕と共に、日本中のサッカー熱が高まった。小学生の頃から通い続けている、小さなクラブチームにも、たくさんのメンバーがなだれ込んできた。が、どんなに志が高くとも、それを教えてくれるコーチがいないチームは決して強くならなかった。

 小学校での経験もあったので、試合にはスタメンとして出場していた内海少年。しかし、ゴールを決める経験こそあれど、試合に勝つ経験は一度もなかった。そんな彼の心に一つの好奇心が現れる。

「試合に勝つって、どんな感覚なんだろう?」

 この頃から彼はサッカーノートという、目標や練習内容、実際に思いついた戦術などを書き記したノートをつけ始める。最初は大した内容は書いてなかったというこのノートだが、日を追うにつれ、その内容はどんどん洗礼され、行動へと繋がっていった。

画像6

 そして中学3年生になった内海少年は高校受験という、進路を決めることになる。
 彼が手当たり次第に選び出した受験校は、どれも自宅から通えるサッカー強豪校だった。

「自分のサッカーの上手さよりも、とにかく強いチームでサッカーをしてみたい。」

 どうしても強いチームでサッカーをしてみたかった。チャレンジしてみたかった。純粋に大好きなサッカーをより高いレベルで楽しみたいという純粋な想いが彼を突き動かした。

 サッカー強豪というだけで選んだ学校の中には、もちろん難関校と呼ばれる偏差値の高い学校もあった。が、偏差値なんてものは全く気にせず、とにかくサッカーの成績がいい高校、全国に行っていたり、県大会でもいい成績を残している高校をとにかく選んだ。4校受けた。
 ある卒業も間近に迫る寒い日、2つの高校から合格通知が届いた。
 彼は迷うことなくそのうちの一つを選びとる。よりサッカーが強い方。内海少年は都立久留米総合高校への門を開いた。
 
 入学を目前に、久留米高校サッカー部の練習に参加できる機会があった。そこで内海少年は度肝を抜かれる。
 ピッチに立つ選手たちは自分がこれまでに見てきた選手たちとは全く違って見えた。恵まれた体格、スピード、技術、どれをとっても今まで自分がやってきたサッカーとは別次元のような感覚に陥った。
 芝のグラウンド、サイドラインの横に立ち、内海少年は汗の滲む拳を強く握る。

「なんてとこに来てしまったんだ。」

 そう呟いた内海少年の目は、絶望とは程遠く、隠しきれない胸の高鳴りを抑えきれず、情熱的にキラキラと輝いていた。

3章 サッカー王国

 都立久留米高校は、当時全国選手権にも駒を進めるほどのサッカー強豪校で、内海少年の入学当時その名門サッカー部を率いていたのは、元全日本サッカー協会の技術委員長も務めるほどの名将・山口先生だった。
 高校に入った内海少年は、書いて字の通りサッカー漬けな毎日を送った。部員総勢200名の巨大な部は、ABCDの4つのグループに分かれており、ABの主力グループはグラウンドで、CDの補欠グループはサブグラウンドと呼ばれる学校の隣の畑で、さらに1年生は遠く離れた別のコートで練習をした。
 その遠く離れたコートで内海少年に与えられた練習メニューは、とにかく走ること。学校近くにある川沿いをひたすら走り続ける。5キロから10キロ。

「僕は陸上部に入ったんじゃないか?」
 
 そんな不安が頭をよぎった。それでも練習はとても楽しかった。
 初めてコーチがつき、教えてもらえる環境がとにかく嬉しくてならなかった。正直キツくてどうしようもない。それでも専任のコーチや監督にサッカーを教えてもらえることがとにかく嬉しかった。
 そんなこんなで、高校1年生の内海少年は無理をする。そしてそのストレスは体にでる。
 夏の校内合宿中、内海少年は自らの血尿を見てこう思う。

「わぁー、真っ赤だ。綺麗だなー」

 合宿に最後まで帯同できなくなることが怖くて、誰にも相談できなかった。と、同時に体の大切さを高校1年生で痛感したという。

 高校一年生の冬、内海に驚くべき声がかかる。2軍への大抜擢だ。正直サッカーが劇的に上手くなった自覚もく、なんだかよく分からないけど、とにかく嬉しかった。メイングラウンドでみるコーチや先輩たちの姿はとても新鮮で、毎日のきつい練習が楽しくて仕方なかった。
 後に、なぜあの時自分を抜擢してくれたのかコーチに監督に聞いてみた。すると監督はこういった。
「だって、おまえサッカー好きそうだったから。」
そう言って笑う監督を見て、自分の実力に期待してくれていたわけじゃないことに情けない笑いが溢れた。その反面、サッカーを通して、内海自身のことを見てくれていた監督への、感謝と尊敬、そしてとてつもない憧れの気持ちが湧き上がった。 

4章 折れる。

 高校2年生、内海少年のサッカーノートはまだまだ続いている。
 中学生時代のそれよりも細かく、具体的な内容で埋め尽くされたノート。練習の前と終わりに必ず開く。ノートの中でだけは、自分よりもサッカーが上手なチームメイトと比較ではなく、目標に向かう自分自身と向き合えた。埋まっていくことがとにかく嬉しくて、サッカーノートはどんどん増えていった。

 そして彼に運命の冬がやってきた。ハードな練習が続いていたせいか、腰とヒザがずっと痛かった。ある日の体育の授業、怪我をした。何が起こったのかは覚えていない。気付くと膝から流血し、救急車が呼ばれていた。

(やばい、練習出れないな。)

 そんなことを考えていた。
 次の記憶は真っ白なベッドの上。緊急手術は終わっていた。

 1ヶ月半の入院生活は、とてつもなく長く感じた。その後のリハビリはもっと時間がかかった。
 入れ替わり立ち替わり、病室にやってきてくれるコーチや監督、そして友だち。嬉しくて、一緒に過ごす時間が息抜きになった。
 その反面、キラキラと青春を謳歌するみんながとにかく羨ましかった。みんなの前ではいつも通りの明るい自分に徹したけれど、無常にすぎる時間。ただじっと、ベッドの上でひとり、何もできずに止まったままの自分。

「俺は何してんだよ。」

 涙が溢れたとて、目の前の現実は変わらない。腕ほどに細くなった足は変わらず動かない。
 中学3年、最後の春の選抜は、あっという間に内海少年を置き去りに通りすぎていった。
 その後、練習に復帰してもまだ、内海の膝は上手く動かず、夏の引退までの記憶は曖昧だった。

 それでも当時を振り返って内海はこう話す。
「それでもね、久留米高校に入ってよかったって思うんです。それまでには受けられなかった本格的な指導を受けられて、3年間で総勢200人くらいの仲間と同じ夢を持って、同じ窯の飯を食った仲間とは、今でも交流ありますし、ほんとうに財産だと思える経験をつめました。」


5章 サクラサカセル

 強い部活に所属していた子によくありがちなのが、部を引退した3年生が、急に浮き足立って羽目を外しだす。ショッピングにカラオケ、あからさまに髪型や服装まで変わる子もいる。
 何を隠そう内海少年もその1人。気心知れた仲間と街に繰り出しすのはとても新鮮だった。
 ある時ふと大学進学の話になった。盛り上がるみんなを見て彼は青ざめる。

 (やばい、ぜんぜん考えてなかった。)

 焦った内海少年は真っ先に進路指導の先生をたずねた。

「先生、俺、日体大へ行って、高校の先生になりたい!」

 志し高い内海少年の言葉に、先生もまた青ざめた。無理もない。この時すでに11月下旬。入試まで残すところあと2ヶ月。急遽塾で受けた模擬試験の日体大入学の可能性はE判定だった。塾では現役合格はまず難しいだろうと言われた。

 それからの2ヶ月はとにかくがむしゃらに勉強を続けた。先生に相談すると、
「日体大ならとにかくこれを全部覚えるといい。」
と勧められた、受験英単語集をとにかくひたすら覚えた。
 寝る間も惜しんで部屋にこもり、ただひたすらに勉強をつづけてる内海少年をサポートしつつ、母は感動しながらこう言った。

「やっと小学校入学の時に買った勉強机が役に立ったわ。」

 あっという間に運命の2月がやってきた。受験テストは思っていた以上にあっさり終わった。日体大ということもあって、体育のテストもあった。
「難しかったね?」
と誰かが呟いているのを聞いて、
(思っていたほどでもなかったかもしれない)
と思う自分に少し驚きつつ、どこか微かな希望が見えた気がした。

 合格発表は手紙だった。家に青い封書が届き恐る恐る開けてみた。

「サクラサク 書類送る」

興奮した。初めて自分の努力が実った気がした。これまでどれだけ努力しても届かなかった目標に、勉強は自分の努力を評価してくれるのだと感じた。嬉しくて、母と抱き合って喜び合った。(母に抱きついたのはいつぶりだろうか?)ふと感じた。

6章 クサる

 大学受験で勉強の楽しさを知った内海青年。いざ大学でも猛勉強と思いきや、決して真面目な学生ではなかったという。
 大学サッカー部には末端の選手を指導するという考えはあまりなく、8軍中7軍にいた内海青年はここでもまた走り続けることになる。それだけならまだよかったが、高校の時とは圧倒的に違ったのは、指導者がいないこと。監督もコーチもいないことへの不満ばかりで、正直あまりサッカーに身が入っていなかったと当時を振り返る。

 そんな中でも教師という目標はブレていなかった。先生になるために必要な教科の単位は全て取り、教育実習にも行った。
 とはいえ若さゆえのフラフラした生活にどっぷり染まっていた内海青年は、教員採用試験は受けず、卒業後は練馬区にあるジムで働き始めた。ちょうど時を同じくして、教育実習に行った高校から、時間があるならサッカー部を見てほしいという連絡をもらった。時間は大いにあった。

 学生たちのサッカーを指導するのはとても楽しかった。自身の高校時代を振り返りながら、目の前の選手たちにどう働きかければより良いプレイができるのか考える日々は刺激的で、
「もっと上手くなってほしい。もっとサッカーを楽しんで好きになってほしい!」
と考えるようになっていた。そんな時、高校の頃の自分と同じく、ケガに悩む選手たちがいた。大学時代に少し勉強した、解剖学やテーピングの知識を伝え、練習メニューやプレイ、サポートに応用していく中で、目に見えて変わっていく選手たちに、とても強い喜びを感じた。

「もっと体のことを伝えたい。」

静かな情熱が内海青年の心に火を灯した瞬間だった。

 すると運命は勢いを増して彼を巻き込み始める。当時働いていたジムで知り合った東海大医科大学研究所の先生から、よかったらうちで働きながら勉強するといいと、声をかけられた内海青年、
(まぁやってみようかな?)
くらいのつもりで、転職を決意した。この時はまだまだ勉強熱心とは程遠かった。

 いざ東海大学医科学研究所に入ってみると、内海青年の甘さを見抜く先生がそこにいた。なんとなく仕事をこなしている彼を見た先生は、彼を強くたしなめることはせず、その代わり彼に本を渡すようになる。ただ渡すわけではない。朝のミーティングで小テストをされるのだ。
 初めはそんなに乗り気ではなかったが、徐々に知識が自分のサッカーの経験に紐ずくにつれ、だんだん知識を得ることが面白くなっていった。そして知識同士がリンクし始め、全体の構造がわかってくると、今度は施術に来た利用者に喜んでもらえるようになって、学ぶことが面白くてたまらなくなっていった。これをきっかけに内海は解剖学の世界にどんどんのめり込んでいった。

画像1

 ある日、お世話になっている先生の前に内海は立っていた。
「先生、僕、先生が教えてくれる解剖学をもっと勉強して、これを仕事にしたいです。」
先生は嬉しげに笑い、鍼灸師という仕事について教えてくれた。
「これだ!!」と思った。体が熱くなるのを感じた。

7章 熱中

 内海が鍼灸師として治療家になるべく、専門学校に入学したのは25歳の頃だった。
入学した彼は周りにこう言い切る。

「必ず首席で卒業する!!」

 専門学校で彼はただ一つ、心に誓う。1番になること。誰よりも勉強し知識をつけたという自信が欲しい。初めて1番になりたいと思った。周りに公言し断言することで、自ら退路を絶ったのだ。
 それからの3年間の内海は本当にすごかった。勉強も遊びもとにかく楽しかった。だからどちらも諦めない。平日は勉強と仕事、しかし周りとの関係も大切にする彼なので、毎週土曜日だけは思いっきり遊ぶと決め、後はひたすらその約束を淡々と守り続けたのだった。
 そして3年後、内海は宣言通り首席で専門学校を卒業する。大学受験で感じた感覚。勉強は努力に応えてくれるということを、改めて実感した。

 卒業後、1年間だけと決め、新橋のフランチャイズ整骨院の院長として経営を学ぶ。朝から夜22:00まで施術。従業員も数名雇い、365日施術に明け暮れた。経営に関する知識は全くなかったので、とにかく本を読んで、ノートに写し、それを実行するためにどうすればいいか、わからないところは知っている人に聞きまくる。これをただがむしゃらに続けた。
 熱心な内海の経営する整骨院は瞬く間に予約で埋まっていった。内海とともに働くスタッフたちも、明るく熱く働く院長のそんな姿をみる内、それぞれの夢や目標を強く意識するようになり、施術にも熱が入る。すると、利用者さんもまたそんな彼らの力に感化され、なんだか明るくなって、確かな施術の効果もあり、元気が出ると評判の整骨院になった。
 
 フランチャイズ店の経営を始めて、ちょうど1年。引き止めるフランチャイズオーナーに1年と決めていたのでと契約更新はしないとつげ、自分が育てた店と別れを告げた。

 そしてこの治療院でスタッフとして働いていた女性と結婚をした。彼女自身も大きな夢をもちながら、内海の夢を懸命に応援してくれることがとにかくありがたかった。

8章 情熱

 心機一転、いよいよ目標にしていた起業、自身の治療院『HAHANA治療院』を開設した。
HAHANAとはハワイ語で情熱という意味を持ち、情熱を持って治療をするという自分の目標をいつも意識させてくれるこの言葉を選んだ。場所は日本屈指の一等地、渋谷の南平台。いよいよ一国一城の主人になったのだった。

 しかし、起業とはそううまくは、いかない。マンションの一室で始めたので、これまでの道に面したお店と違って、一見さんが全く来ないのだ。2〜3ヶ月はとにかく暇で仕方なかった。それこそマンションのオートロックが恨めしく思えてくるほどに。
 暇だからといってそうやすやすと諦めるわけにはいかない。日中は駅に行き一つ一つ丁寧に手渡しでビラを巻いた。それが終わると帰って経営の勉強をした。その中で出会った渡邊美樹さんの経営論に感化され、少しでも体感して学びたいと実際に居酒屋和民でもアルバイトをしてみたりした。
 
 時が経つにつれ、友達や利用者さんの口コミが少しづつ広がり、徐々に新規のお客さまも来るようになった。
 とはいえ、オートロックマンションの一室という立地条件での経営では、いかにリピートしてもらうかが鍵となる。何度も何度も考えるうち、内海は一つの発見にはっとする。
 
『人は楽しいと楽になる。楽しいと感じているとき、人は痛みを克服している。』

 心と体の繋がりに俄然興味が湧いた。と同時に自身の施術時間の目標を、どの利用者さまにも「楽しい時間を過ごしてもらう」とおいた。
 こうと決めると内海はとことん追求する。それぞれの利用者さんと何を話したかを治療ごとに丁寧にカルテに書き残し、話が盛り上がった本を読み、舞台を見に行き、利用者さんとの共通言語をどんどん増やしていった。
 『施術』と『楽しい』。一見つながらないように感じるこのテーマだったが、これが密接に絡み合うことで、治療の満足度は上がり、みるみる内にリピーターが増えていく。興奮した。
 そうする内、また一つの想いが頭に湧いて、まるで染み付いていくように、彼の頭の一角を占領するようになった。

 「心と体の繋がりを、もっと深く学びたい。専門的に勉強したい。」

 HAHANA治療院はとても順調で、利用者さんたちも喜んでくれ、収入もかなり安定している。何より自分を応援してくれる妻がいる。そうやすやすと手放せないことはわかっていた。しかし、ぬぐってもぬぐっても現れるこの想いは、内海の心を魅了してやまなかった。

 時を同じくして、大学時代の友人たちが、軒並み海外で活躍するようになっていた。
 世界の大舞台で活躍する彼ら。高い志を持って、直向きにその目標へと進む姿に、小学校の内海くんに感じたような、劣等感を感じるようになった。大好きな仲間の前進を喜ぶ反面、どこかで自分はどうなんだと比べて羨む気持ちは居心地悪く、なんだか自分が嫌になった。

9章 海外留学

 人を羨むくらいなら自分も挑戦したい。内海はずっと夢だと思っていた、世界の舞台に立つスポーツ選手をトレーナーとしてサポートしたい。海外の大学で心と体の繋がりを本格的に勉強したいと考えるようになった。ちょうどこの頃、2020年に開催されるオリンピックが、東京で開催されることが決まった。国際的な一大イベントが、自分のホームタウンで開催される。こんなチャンス二度とないと感じた。一流の施術家になって、あの大舞台に立つ選手をサポートしたいと強く感じた。

 ともに治療院を支える妻に相談した。すると彼女は意外にも「ぜひやるべきだ」と強く応援してくれた。2年間の留学。短くはない。それでも応援すると言ってくれることが本当にありがたかった。

 とはいえ、超高級住宅街にある代官山(渋谷南平台)のHAHANA治療院で、2人で積み重ねてきた収入を妻1人で維持することは難しい。自分がいなくても経営が成り立つ仕組みを作ろう。そう考えた内海は試行錯誤のすえ、2015年春、東京都昭島市に新店舗ハハナ整骨院を開院した。従業員を雇い、路面店で保険適応の整骨院を営む。もちろん紆余曲折もあったが、内海はここでも経営を見事に成功させた。そして自分の右腕となる後進も見事に育て上げた。

画像6


 準備は整った。2015年秋、内海は単身イギリスへと旅立った。

 イギリスでの生活は楽しいことだけではなかった。
 初めての母国語ではない生活。いくら準備してきたとはいえ、慣れない文化や生活環境に戸惑うことも多かった。が、明るく前向きに愚直に勉強に取り組む彼の周りには、すぐに友達の輪ができていき、生活面でも勉強面でも友人をはじめ周りの人たちが支えてくれた。
 院に進み勉強すればその道のプロフェッショナルだと、トレーナーとして誰よりも勉強したと胸を張れる気がした。世界を舞台に活躍する日本の友人たちに感じた、あの情けない劣等感から解放されるような気がした。

 3年の留学を終え、2017年冬、イギリスで修士号を取った内海は意気揚々と日本に帰国した。

画像3

10章 支え

 日本に帰国した内海は散々な目に遭う。
 一つ目は妻の心が離れてしまったことだった。月日というのは残酷なもので、帰国した内海の前に立つ妻、彼女の描く未来に、彼はもういなかった。喧嘩をするでもなく、ただ別れたいと。静かに2人の結婚生活は終わりを告げた。
 
 それでも自分には夢があると、自分を奮い立たせた。選ばれるためには一流の技術と知識が必要だと思っていた。これまで積み重ねてきた施術の腕も、学び続けてきた解剖学の知識も、イギリスで磨いた語学力も、必要とされるものは全て自分に備わっている!はずだった。
 日本最高峰のスポーツ科学センターであるJISSに加盟することが、オリンピック帯同の必須条件だった。これまでに積み上げてきた全てを書類に書き込み、JISSの門を叩いた。が、東京オリンピックを前に、その門は堅く閉ざされていた。まさかの書類選考で落選したのだった。

 かつてないほど内海はうちのめされた。何がいけなかったのか、考えれば考えるほど、自分がやってきた全てがいけなかったような気がしてきて、持っているもの全てがなんだか空虚に思えてきて、自分には何もないような気がした。辛かった。

 そんな時、支えてくれたのが友人たちだった。
 長く付き合う中で、みんないろいろなことがあるが、集まればいつも変わらず底抜けに明るく、悩みなんてすっかり忘れて「ガハハ」と大胆な笑いを交わす。本当に救われた。そして宴もたけなわに差し掛かると、誰からともなく夢を語りはじめる。
 愛したボクシングを広め、後進のために尽くしていきたいと話す者。今やっと注目を集め始めたダブルダッチを国際競技に押し上げ、いつかオリンピック競技にまで育て上げたいと語るもの。いろいろな友がいるが、みな口だけではなく、それぞれの道なき道を切り開き前進している。

 「自分はどうなんだ?こんなにかっこよく生きているのか?」

 またいつもの劣等感かと感じたが、ふとそうではないことに気づく。

 「僕は前を向いてひた向きに夢を追う姿にこの上なく惹かれ、自分もそうありたいと何よりも願っているんだ。この熱く生きているみんなの中で、自分も切磋琢磨されながら、夢を追いたいと心から突き動かされているんだ。」

 なんだか心のタガが外れた気がした。

11章 運命

 人生というのは不思議なもので、こういう時にこそ運命的な何かが働きかけてくる。
 傷も癒えた頃、出会った女性と恋に落ち結婚した。底抜けに明るく、自立していて、逞しく軽やかな彼女にとても勇気づけられた。

 運命はまだ続く。ある日、専門学校時代にお世話になっていた先生から久しぶりに呼び出され、頭を下げられた。

「今度ベトナムに大きな病院ができるんだ。そこで施術家としてベトナムの後進を育ててくれないか?」

 ベトナム初となる鍼灸師の病院参入になるとのこと。驚きはしたが、みしなぬ土地でいろいろな人の中で自分の力が役に立ち、自分自身が変化していくであろう海外での挑戦にワクワクした。いろいろと考えたが、この話を受けたいと話すと、妻は喜んでついていくと言ってくれた。自分が大切にしている仕事を置いてでもそう言ってくれることが、とても嬉しかった。

 2度目の海外への挑戦を前に内海にはまた一つ大きな夢ができた。
 これからも学び続け、いつかスポーツ科学の博士号をとり、心と体の繋がりをもっと深く科学的に知り、それをプロスポーツの世界に還元すること。

 どこまでも貪欲に学び続ける内海の挑戦は、知識となって世界に向かい広がり続ける。

画像5

あとがき

 まずはじめに長文を最後まで読んでくださってありがとうございました。
今回ご紹介した内海さん、もう10年ほど仲良くしていただいていて、私たちにとって本当にいい兄貴といった存在です。そんな彼はいつも手帳を持ち歩いてらっしゃって、びっしりとメモが書かれているんですね。今回の取材を通してその手帳のルーツが中学校の頃に始めたサッカーノートだったと知り、あぁこの方は本当に深めるために、積み重ね続ける方なんだなぁと心底感じました。それに触発されて付け焼き刃のように手帳を持ってみましたが、気づいたことをメモに書き、それを一つ一つ解決していくこと、小さな積み重ねですがやってみて改めて続けるということは本当に難しく大変なことなのだなと感じました。
 内海さんが感じていた『劣等感』のように、人にはそれぞれウィークポイントがあるように思います。私のそれは『飽き性』だったり、『注意散漫』だったりするのですが、これってひっくり返すのも意外と簡単で、なんならそれを魅力と思って近くにいてくださる方もいるんですよね。私は内海さんのそれは【飽くなき向上心】だと感じています。常に高く前をむき、ステージが代わっても愚直に積み上げる姿は、周りにいる人を勇気づけ、その笑顔のように向上心となって広がります。それが証拠に彼と話した帰り道は、いつも夫と2人「私たちもまだまだだ」とたくさん心を使った後の筋肉痛のような痛みを覚えるのです。人の見方ってほんとうに不思議だなと感じるばかりです。最後に宮本武蔵の奮い立つ言葉をそえて、あとがきとさせていただきます。

「道は剣だけにあらず、ひとはどのような道を選んでも、己を磨き、その道を究めることのみ邁進すべし」 宮本武蔵 五輪書より

画像4

interviewer:masaki
writer:hiloco Nakamatsu

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?