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閉ざされた世界を切り拓く〜真坂雅美

はじめに
 このたびご紹介いたしますのは、今女性の間で注目を集めている新業界、性のタブーにせまり、サービスを展開する【フェムテック】で、日本の最先端を走り始めた、超敏腕働くママの真坂雅美さんです
 パワフルかつ冷静に、女性の悩みを黙認せず、向き合い打開し続ける彼女の動力源は、閉ざされた世界に対する反骨精神でした。そんな彼女の見ている人までパワーが湧き上がってくるような半生と、仕事・家庭に向き合う姿勢を紐解きましたので、ぜひ最後までお付き合いくださいますよう、よろしくお願いいたします。

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真坂雅美

【目次】
序章
1章 閉ざされた町から
2章 1人で生きていける女性
3章 理想はちょっぴり辛かった
4章 スーパー営業ウーマン
5章 向き合う
6章 転機
7章 その先へ 
あとがき

序章

 「私、もしかして今の日常の中で無理をしてるかもしれない。」
メディテーションを日課とし、毎日自分と向き合うことを繰り返すうち、雅美は本当の自分らしさにふたをしていたことに気がつく。
 大手製薬会社の期待の星。女性初の営業管理職。時期部長候補にまでのしあがった雅美は、遠く北海道は札幌の地で、我に返っていく。そして長年勤めてきた得意であった仕事を手放し、夫婦ともに自分らしく生きることを決め、2人の愛娘と共に家族で2拠点生活へと踏み切る。

 そして、全てを手放したその先で、彼女はフェムテックに出会い、フェムテックに恋をする。

 テリトリーの中にいることに安心感を感じ、その中で比較し、成長を目指す人が世の中には多い気がする。しかし彼女こと、真坂雅美はその閉ざされた環境や価値観に疑問を感じ、その壁をこじ開け光を取り込む時にこそ、持ち味である反骨精神と行動量を発揮し、そこにやり甲斐を感じ、成長を遂げる彼女が、次に挑むのは性教育や特に女性特有のホルモンに関しては我慢を無意識している閉鎖的な文化が残る日本。
 雅美は今、今まで表に出てこなかった、女性ホルモンに関わる健康課題と言われる日本にフェムテックという新しい文化を根差すべく、奔走し続けている。

1章 閉ざされた町から

 「15歳で家を出る。」
まるで物語の始まりのようなフレーズ。彼女が生まれた秋田県の町、都市部から遠く離れた一言で言うと限界集落では、子どもたちが学ぶための定説となっていた。近くに通える高校がないため、子どもたちは15歳になると進学のため、子供たちは単身で故郷を離れ、それぞれの学校に通うのである。
 雅美はそんな15歳が楽しみで仕方がなかった。彼女が選んだのは秋田の市街地にある進学校だった。4人姉妹の1番上。多感な時期によくある反抗期まっただ中の彼女にとって、親やきょうだいという煩わしさから解放されるのに、家を離れるうってつけの口実だった。
 反抗の理由の中の一つに、男女平等とは少しかけ離れていた雅美自身の家庭環境があった。
 彼女の家庭は母方の祖母と、両親、4人きょうだいの二世帯同居だった。祖母はとても聡明で、芯の強い女性だった。祖父は母が生まれた数日後に電車事故で他界し、祖母は周りの再婚の勧めを押し切って、2人の愛娘たちを女手ひとつで育て上げ、当時その地域ではまだ珍しかった女児の大学進学まで成し遂げた。それに応えるように母も大いに学び、保育士の資格を取り、その地域の保育園で女性園長にまでなった。そんな能力のある2人を雅美はとても尊敬し、また誇らしく思っていた。
 しかし一方で、社会では男性の上司を相手に、女性が中心の保育という組織を導く立場で苦戦する母や、シングルマザーとして苦労を強いられたと話す祖母の言動に、(どうしてこんなに能力の高い人が、女性というだけで苦労を強いられなければならないのだろう?)とずっと違和感を感じていた。

そんな時、幼少期に何度も遊びに行った、東京の叔母夫婦の営む薬局のことをよく考えた。15歳の彼女にとって東京はとても眩しく、憧れの街だった。そしてそれ以上に、女性でありながら薬剤師という専門知識と技術を武器に叔父と対等に仕事をする叔母の存在も強烈に雅美の心を掴んだ。

 当時を振り返り雅美は
「私の行動パターンって2通りあって、違和感を感じた時、『違う世界にいく』もしくは『全力で打開する』のどちらかなんです。黙認して受け入れるということがどうやらできないんですよね。
15歳の当時も、閉ざされた価値観からやっと抜け出せることが、嬉しくてたまらなかったんです。正直もうなんでもできる!1人でも生きていける!って思ってたんだと思います。」と苦笑いを浮かべた。

 意気揚々と始まった一人暮らしだったが、間もなく雅美は思い知らされる。
あんなに憧れた1人の空間が寂しくてたまらない。
高校では、これまでに接してきた同級生の数の何倍も多くの人に囲まれ、なれない環境になかなか馴染めず、しばらくは友人もどう作っていいのか分からず。家に帰れば今まで手伝いとして担ってきた家事の全てを、自分1人でこなさなくてはならず、1人で作る生活そのものに戸惑った。
1日の終わりに、ヘトヘトにくたびれて静かな部屋をぼーっと見つめ、つぶやいた。

「私って、守られてたんだ。」

涙が溢れた。何でもできると思っていた自分。あんなに家族に反抗的な態度で接してきた自分が、たった1人のちっぽけな15歳の女の子だと気づいた彼女の胸に、悲しさと怒りが込み上げた。それと同時に、これまでの自分への恥ずかしさと、家族への感謝の気持ちが、鼻の奥をつんと締め付けた。


2章 1人で生きていける女性

 はじめこそ苦戦した一人暮らしだったが、3年も経つ頃には立派に暮らしも成り立つようになり、友人もそれなりにたくさんできて、楽しい学生生活を送っていた。
 高校3年生といえば、進路という人生の大きな分岐をどちらに進むか問われる時期。自立した女性に憧れを持っていた雅美は薬学部を目指した。現役での受験は残念ながら不合格。1年間浪人をして、もう一度チャレンジしたが、残念ながら薬学部の門は固く、その代わりにと少しでも手に職をつけたい。医療に関わりのありそうな専門学校の遺伝子工学部に進学した。3年制の専門学校、今しかないとばかりに学生生活を謳歌する友人たちとは対照的に、学べば学ぶほどに薬学部への気持ちが強くなっていく彼女は、友人の誘いを断って1人図書館に通い、受験勉強を続けた。
 専門学校2年生の冬、二十歳の雅美は3度目の薬学部受験に挑む。そのことを親には話せなかった。受験費用も塾代も、自らバイトしてためたお金で何とかまかなってのチャレンジだった。

 結果は合格。

嬉しさと共に、その後の不安が押し寄せてきた。入学金、学費はどうするのか。
今更親に直接相談することもできず、迷った挙句、彼女は奇行に出る。
 FAXで合格通知を実家に送ったのだ。
独特の送信音が消えて間もなく、携帯がなった。電話口の母は困惑の色を隠せなかった。
「、、、え?、、雅美?、、、とにかくおめでとう。でいいのよね?これ、どういうこと?」
専門学校を卒業し、就職すると思っていた娘からの、突然の大学薬学部合格通知。驚く母に、彼女は事情を説明した。すると、母は落ち着きを取り戻し彼女にこう切り出した。
「来年分の学費をもう専門学校に支払っているの。そのお金を何としてでも取り返してきなさい。そのあとはこちらで何とかするから、雅美はそれだけ先生と話をして、すぐに連絡ちょうだい。」
それだけ言うと、母は電話を切った。
当時を振り返り、雅美は話す。
「電話を切った後、母はおばあちゃんに1番初めに話し、次に親戚と連絡をとって、言葉の通り必死で私のために何とかお金を工面してくれたんです。何とか学ばせてあげたいと思ってくれた。何より、電話して初めの一言が『おめでとう』だったんですよね。それがとにかく嬉しくて。母や祖母の存在が本当に有難いです。」

 晴れて雅美は憧れの仕事、薬剤師への第一歩を踏み出すことになった。

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3章 理想はちょっぴり辛かった

 大学で学ぶ時間はとても楽しかった。志していた薬剤師への道を着実に踏みしめているようで、勉強にも貪欲に取り組んだ。周りの友人たちも雅美にとって、とてもいい刺激になった。というのも、薬学部には裕福な家庭環境が背景にある女生徒が多く、自分とは少し違った価値観の友人の話はとても面白かった。ブランド物や高級外車を身にまとう友人に対し、不思議と劣等感などを感じることはなく、それらを持つ人たちの価値観に触れられることが、とにかく楽しく、幸せだった。
 大学も学ぶ時間がどんどん進み、いよいよ進路の話が出る頃には、彼女の中に理想の薬局像が出来上がっていた。
(会員制のサロンのような薬局で、その人にあった薬剤師が選べるお店を創りたい。)
夢のような思いを抱え、彼女はいざ現場を見るべくインターンシップに赴く。数件回る内に見えてきたこと。それは自分の理想の薬局は、どうやら採算が取れず経営が立ち行かないということ。
そしてもう一つ大きな現実。調剤室という処方箋に沿って薬を用意する、畳数枚の閉ざされた部屋。そこに立つ内、向き合うことになった自分の気持ち。
「こんな畳数枚の部屋の中、私の社会は終わっていくの?いやだ。」
 人には向き不向きがある。正直細かい作業が好きなわけでも、精密な計算が得意なわけでもなかった彼女は、憧れた薬剤師という仕事が自分に向いていないことを知ったのだった。

 そんな大学生時代、彼女は一冊の本を読んだことで、大きく自分の行動を変えることになる。
『ガンジス川でバタフライ 著:たかのてるこ』
パワフルで奔放に人生を楽しむ女性の姿にとても惹かれた。どうしても自分もその感覚を味わってみたくなった。そして雅美は初めての海外に、バックパック一つで飛び出した。
 ガンジス川でバタフライこそしなかったが、彼女はバックパッカーとしてインドシナ半島を巡った。形にとらわれず、さまざまな形で自分らしく生きる人々に出会う内、自分ももっと自由に人生を選びたいと考えるようになった。あの小さな閉ざされた部屋で、ちみつに薬を扱う自分の姿にはピンと来なかった。と同時に、薬剤師という資格職のレールに乗った閉ざされた選択肢にも違和感を感じた彼女は、薬剤師ではなく、自由な選択の中から仕事を選ぼうと決めた。


4章 スーパー営業ウーマン

 大学卒業後、雅美が選んだ就職先は武田製薬の営業部だった。負けん気が強く、聡明だった彼女はみるみる内に営業としての頭角を表した。自分で考え、行動にうつし、結果を出していった彼女を、上司は『宇宙人』と呼んだ。というのも、雅美はとにかく言葉にすることが苦手だった。結果を出しても、上司の求める答えは出ない。何を考えているのか分からない彼女を、上司は自分の経験の中で彼女を判断し、評価する。
「若くて可愛いってだけで、よくしてもらえていいよな。」
なんて、驚くべき言葉を投げかけられることもあった。屈辱だった。と同時に、世の中の女性の能力に対する認識が、なんと浅はかで軽率な物なのだろうと憤りを覚えた。その頃から、社内の性に対する不公平感を抱くようになった。同じ成績を出したところで、男性と女性とでは評価のされ方が違う。しかし大きな組織の中で、その感情は蓋をしておくことの方が楽なのも事実。雅美もまた最初こそおかしいとも思ったが、営業として評価されるうち、自分にとって優しい環境が用意される内、気づけば心の奥にその憤る感覚をしまい込んでしまっていた。結果を出している人間に組織は優しく、居心地の良い場所となっていた。

 結婚を機に雅美は夫と共に神戸支社に赴任した。
 まもなく1人目愛娘の妊娠・出産で産休を経て、心機一転、神戸市店での仕事を再開した。復帰当時、時短勤務だったのだが、まだ出産を機に離職という風潮がなんとなくではあるが残っていたこともあり、育児期間中の時短勤務者は彼女が初めてだった。
 実際に稼働し始めて蓋を開けてみると、初月の売り上げ目標を達成できなかったのは彼女だけだった。営業として不利なエリアをもらったからとか、関係性ができていないからとか、産休明けで時短勤務だからといった、外的要因は大いにあったのかもしれない。その致し方のない結果を前にした雅美は当時をこう振り返る。

「とにかく悔しくてたまりませんでした。
できると思っていたというよりも、100%を取るのは当たり前と思ってやってきていたので、失敗というクセがつくことがとにかく嫌だったんです。
 また時短勤務の1人目として、私の後に続く後輩ママたちのためにも、時短勤務者はこんなもんだっていう、ネガティブな前例を作りたくなかった。時短だって働ける。母親になってもできるんだってことを、会社という組織に残したかったんですよね。」

 それからの雅美の追い上げは目まぐるしかった。もともと今やっていることの結果は3ヶ月後に出ると考えながら仕事をしてきたこともあり、それからの数ヶ月は下期に向けての仕込みを着々と積み上げていった。無理だと感じる外的要因を丁寧に一つずつことごとく切り崩し、半年先の目標を見据え、とにかく考え動き続けた。
 そしてついに半年後、彼女は最高の結果を出す。支店の他のメンバーが未達成の中、唯一の100%達成者が雅美だった。そしてそれ以降、神戸支店内において、彼女は常に1位の結果を打ち出し続けていくことになった。

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 働く母親をとしての毎日の中でも、雅美は男女の間にある不条理に気づく。当時は産休が明けて、女性は時短勤務で仕事・育児・家事を担うのが当たり前。一方男性は今まで通り変わらないペースで仕事を続けるという、どこからともなく社会に根付いた『常識』。夫が同じ職場だったこともあり、その差を顕著に感じた。ライフスタイルもワークスタイルもこれまで通りの男性と、母親になったというだけで、常に時間に追われ、仕事・生活の全てに変化を求めらる女性。同じように親になったのに、なぜ性別で差があるのか、考えれば考えるほど腑に落ちなかった。

5章 向き合う

 常に良い成績を打ち出し続ける雅美に、会社組織は優しかった。
営業職ではよくあること。結果を出すものが善で、それこそが全てにおいて正しく、影響力を持つ。そしてそれを続けることで、社内の憧れの的へと押し上げられていく。
 女性営業マンとして、産前も産後も結果を出し続ける彼女は、ついに女性初のマネージャーとして抜擢された。個人ではなく、チームの達成がミッションとなっても、彼女は変わらず良い結果を出し続けた。

 そんなある日、友人に誘われてメディテーション(瞑想)を始めることになった。自分の内面と向き合う時間。初めは朝5分から始めたが、これがなかなか難しい。気づいたら時計は3分を指していた。できないことが悔しくて、少しずつ時間を伸ばしていった。

 そうして自分と向き合う時間の中、彼女は自分に気づいた。無理をしている自分。

 管理職という仕事はもちろん嫌いではなかった。結果も出ている。適職な仕事。でも、そこにいるのは管理職として求められる人格を必死で演じている自分だった。組織の中で応援してもらえるような、常に前向きで、明るく、聡明な自分。居心地はいいが、ありたい姿ではないと感じた。会社という閉ざされた世界、積み重ねてきた地位に執着している自分。
これはほんとうのありたい自分じゃない。そう感じた。

 自分の本心に気づいたから、すぐに変わるなんてことはできなかった。
結果を出し続ければ、優しく居心地も良く、力を貸してくれる仲間も多い組織。社会で働くなんて、全てが満たされているはず無いと、それから数年間はそんな自分を誤魔化しながら会社での仕事を続けた。

 だが、自分の本心に気づき始めた雅美に、運命はときに残酷に、まるで濁流で押し流すように、彼女にそれを痛感させ、進むべき道へと流れるよう、決断を迫る。

 本社で、仕事をしたい願い、出世競争の中にいた。仕事に家庭にと多忙な毎日の中、雅美は自分の体調の変化に気づく。初めはどうってことない風邪をひいて、疲れのせいで不調が続いてしまっているんだと思っていた。いや、そう思おうとした。しかし、あまりにも続く体調不良に、流石に自分をごまかし続けることもできず、受診した。2人目妊娠5ヶ月だった。

「どうして今なの?」

 心に浮かび上がった気持ちは、自分らしい自分とはかけ離れていた。それは母としての自分を深く傷つけた。
 素直に心から自分の元に舞い降りて来てくれた命を喜べない自分がとてつもなく嫌になり、それでもこれからの出産、育児の過程でどうしても立ち止まらなければならない時間が悔しくてたまらなかった。努力・我慢・集中、自分のどの力を駆使してもどうしようもない時間。全てが崩れていくような感覚に陥った。

 当時を振り返り雅美はこう話す。 
「今になって思うんですが、2人目はね『生き方を変えたほうがいいよ。会社に縛られている今の場所でないよ、ここじゃないよ』って私に教えに来てくれたんだなって、今になって思うんです。
 当時の私を振り返ると、朝起きてから夜中寝るまで、ほんとうにずっと仕事のことを考えてて、会社に敷かれたレールから外れることに恐怖して、完全にワーカホリックでした。それではない場所に連れていってくれたのが、この子なんです。」
そう話す彼女の笑顔は、とても幸せそうだった。

6章 転機

 2人目の妊娠が発覚したと同時に、当たり前のように本社勤務の道が消え、夫の北海道赴任とともに、北海道勤務を命じられたことで、彼女が希望していた本社勤務の道までも断たれてしまった。自分の働きではなく、その時の状況で評価されることに、雅美は失望した。

 いよいよ産休・育休に入った雅美は、ぽっかりと出来た時間で経営学修士ことMBAを取得するべく、経営大学院グロービスの通信課程に入学する。というのも、営業として多くの経営者と関わるうち、彼らと対等に話がしたいと考えたからだ。そのために経営を学ぶことを決意した。
 通信過程ということもあり、クラスには雅美と同じように産休や育休中の社会で活躍する女性たちが多く、受講や課題提出に追われる時間はなかなかハードだったが、同じ境遇の女性たちと関わる時間は、今までに接したことのない業界や今まで接点を持てなかった人々にも出会えて、とても刺激的で充実していた。
 その中でも修了課題の新規事業立ち上げプロジェクトは、雅美の価値観を大きく変えるキッカケになった。グループで新規事業の企画からスタートし、最終的に実際に企業を相手どりプレゼンをし、資金調達までを行うというこのプロジェクト。彼女のグループでは、家の中にいる女性に向けたオンラインフィットネスを提案し、通信過程グループでは初めての全国本戦出場までを果たした。そんな快挙を果たしたにもかかわらず、全国本戦で負けた時、彼女はとにかく悔しかった。その悔しさをキッカケに『起業したい』という思いが、雅美の中に芽生えた。

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 そして時代はコロナ時代に突入する。

 慣れない環境での自粛生活は、想像以上に苦しく、じわじわと家族を追い詰めていった。
異変に気づいたのは夏前だった。夫の表情が日に日に暗くなり、口数がどんどん減っていった。鬱と診断された。
 家族、それぞれの今後を考え話し合った。今の会社での限界を話す夫。雅美も同じことを考えていた。

「一度会社を手放そう。それぞれのやりたいことをやってもいいはずだよ。」
そう言うと夫は静かに頷いた。

 手放すことはもちろん恐かった。次の仕事が決まっているわけでも、やりたいことがあるわけでもない状態で、収入がなくなるという恐怖は計り知れなかった。
 でもそれ以上に怖かったのが、やらないで後悔する未来。
 40歳という節目を迎え、自分のキャリアを逆算すると、おそらく全力で働けるのは後10年。その10年を会社人生で演じ続けて、予想される未来の自分の姿には全くときめかなかった。
 先は見えない代わりに限界もない世界で、全てを手放して全力で自分らしく生きる未来を諦めたくなかった。

そして雅美は自分が積み上げてきたキャリアを手放した。

7章 その先へ

 とはいえ、前年に購入した2世帯住宅とローンもあるし、好きな街である札幌でも子ども達と暮らしたい気持ちあり、すぐにその土地を離れるわけにもいかず、時を同じくして夫の実家で営んでいる家業を手伝って欲しいという話も浮上した。どうすれば自分らしく生きられるか、やりたいことをやれるか、何度も話し合いを繰り返し、辿り着いた形が多拠点生活だった。夫の実家と、北海道を行き来しつつ、やりたいことを形にしていくと言う形。決してありふれたスタイルではないけれど、これしかないと思った。

 すべき仕事も、やりたいこともない生活はもちろん怖かった。この先どうすればいいのかという不安ももちろん付きまとったけれど、それ以上に自分を押し殺して無理をしながら仕事を続けなくてよかった。日常の今ここにある小さな幸せを感じれるようになった。

朝起きて日課の瞑想をする。自分と向き合う時間は、重ねるたびに一枚ずつ余分な部分が剥がれていくような感覚で、また集中できたり、できなかったりと毎日違う自分に出会うことが、自分の中の波を知るようで、そこにささやかだけど確かな幸せを感じた。
 また大切な娘たちと、限りをつくらずとことん過ごす時間はとてつもなく大きな幸せを感じた。一緒に遊んで、食べて、眠る。当たり前の日常の中で成長していく2人の姿に逞しさや、当たり前の儚さを感じ、心から2人の命を生み預かれる母としての時間に感謝する日々。
 無くしたことの不安よりも、大きな大きな日常の中の幸せを感じた。

 とはいえ、何もしない期間をいつまでも続けるわけにはいかない。自分らしく生きる上で、仕事は必要不可欠だった。
 雅美がまず初めにやったこと。それは【やりたくないことを考えること】。
少しずつ剥がし、削いで、研ぎ澄ませていくと、彼女がしいたいことは、個人で名前を売るのではなく会社やサービスで広く浅くでもいいので、多くの人に関わり少しでも幸せにすることだった。その前提を置いて、とにかく色々な人に連絡をし、時間をもらい、会って話を聞き相談をし、知見を広げていった。

 そんな中でフェムテックという世界に出会った。
 その瞬間「これだ!」と直感した。それはまるで恋に落ちたような感覚だった。

 女性が抱える健康上の悩みや課題をテクノロジーで解決するというフェムテックは、雅美にとって、性というタブーへの挑戦であり、なんとなく人に相談できないという無意識の葛藤を顕在化し、閉ざされた世界にメスを入れ、オープンにする、新しい価値観を文化にする、社会への挑戦だと感じた。

 そしてTRULY  Inc.と出会い、話を進めるうちにこの組織でなら自分らしく、力を発揮できるのではないかと参画することを決めた。というのも、代表という組織を先導する立場以上に、今の自分らしさはこれまでにも経験のある、フォローし押し上げるスキルだと考えたからだった。

 フェムテックという世界に身を置き、ベンチャー企業で働くことは楽なことばかりではない。それでも好きなことや夢に向かって走り続ける毎日はとても幸せだ。先日発行された東京メトロのフリーペーパー『メトロポリターナ』でのフェムテック特集の存在はもとても嬉しく励みになった。
「自社がページを飾ったことももちろんだど、それ以上に自分たちが発信し続けている、かつてはタブーとされていた新しい価値観が、街の目につく場所に置かれるほどに受け入れられ、またメトロを利用する若い人たちにとっては当たり前として浸透しはじめてることがとにかく嬉しいんです。」と雅美は笑顔で話す。
 そして雅美は今日も、新しい文化で閉ざされた世界に光を当てるべく、札幌の街から発信を続けている。

あとがき

 まず長い文章を最後までお付き合いくださって、本当にありがとうございます。
 インタビュー中、とにかく冷静に静かに話す彼女。しかしその半生はとても熱くパワフルで、これでもか!というほどに、迫るものがありました。
松任谷由美さんの『やさしさに包まれたなら』という楽曲の中で、
「目に映るすべてのことはメッセージ」という言葉がありますが、自分らしく生きるために自分にもできることはなんだろう?と考えた時、それは妥協するのではなく、自身の内面に何度もお伺いをたてつづけ、ぎりぎりまで削ぎ、飛び立てるほどにを軽くすることから始まるのではないかと感じました。その中で、世界はいつでもそれぞれに必要なメッセージを送ってくれていて、その時感じた直感に目をむけ受け止めることで、人生は幾分にも生きやすくなるのではないかと感じました。
 最後に彼女のお話の中で出会った、大好きなフレーズをご紹介してあとがきとさせていただきます。

「数字を達成すると、いろいろな表彰状をもらうんですけど、私、それをみんながいない時にシュレッダーにかける瞬間が大好きだったんですよね。『ありがとうございます!』って受け取った表彰状、もちろんそれなりに嬉しいですが、それ以上に0から新しいことを始められることがすごく楽しい。どんなによくてもどんなに悪くても、必ず0からスタート。みんな一緒。同じラインから新しいものを積み上げる。過去に囚われない。また0から。」


interviewer:masaki
writer:hiloco Nakamatsu


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