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美しい風を掴む女性〜鈴木美帆子 後編

はじめに
 今回ご紹介いたしますのは、2019年アメリカ『TIME』誌の「世界で最も影響力のある100人」に選ばれたこんまりこと近藤麻理恵さんの片づけ「こんまりメソッド」普及のために設立された会社、KonMari Media Japan株式会社で、コンサルタントコミュニティディレクターを務める鈴木美帆子さんです。
男女を問わず、とにかく周りから愛されまくる彼女の、ここでしか聞けない驚きの山あり谷あり豪風雨あり!?な、なんとも愛おしい半生から、その愛される秘訣を紐解きましたので、ぜひ最後までお付き合いくださいますよう、よろしくお願い致します。

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鈴木美帆子

目次
【前編】
プロローグ
1章 お母さん
2章 理想の男性
3章 お父さんの作戦
4章 国際結婚

【後編】
5章 キャリアを築く
6章 美帆子の志
7章 豪華客船
あとがき

5章 キャリアを築く

 長男の妊娠出産を機に専業主婦になり、かわいい子供にも恵まれ待望の第2子を妊娠した頃、夫が職を失った。夫の所属していた機関が日本から撤退してしまったのだ。臨月を迎え子供がいつ出てきてもいいお腹を抱えてなす術のない美帆子は焦った。それに対し夫は
「僕は皿洗いの仕事なんてできないから、しばらくは退職金で食べていくよ。」と
なんとも悠長に構える彼の姿勢が、さらに彼女の不安を煽った。出産してもまだ夫は働かない。結局夫はここから2年間定職に付かなかった。莫大な退職金が入ったこともあり、それと貯蓄でしばらくは食べていけるとから焦る必要はないと言う夫の言葉を振り切り、幼い長男と産まれたばかりの長女を保育園に預け、美帆子は社会に出る。
 乳飲児を抱える、社会人経験もほとんどない女性を雇ってくれる会社は当時なかなか見つからなく、時給980円の事務職のアルバイトにも落ち、派遣業務も実務経験が3年以上必要ですと門前払だった。そんな中なんとか探し当てたのが、携帯会社のテレアポの契約社員の職。なんとか頑張って月20万。他社で中途採用に必要だと言われた実務経験3年間をここで積んだ。
「このテレアポの仕事が、今の仕事に役立っていると思うんです。電話を通して受講生の皆さんの問題解決のお手伝いをしている。あの時は消去法で就いた仕事だったけど、しっかり自分の糧になっている。無駄なことなんてないんですよね。」と美帆子は朗らかに話す。

 働くお母さんになって3年、離職していた夫もまた大使館に再就職できたが、これからも何が起こるかわからないからと、リスク管理のつもりで働き続けた。そしてかねてから挑戦したかった職である外資系秘書に挑戦するため、職業訓練校に無料で通いPCスキルを身につけた。新たなキャリアのスタートである。世界最大級の液化天然ガス供給会社であるカタールガス子会社での秘書業務は、とても煌びやかな世界だった。英語を使った業務で、言語の壁に始めこそ苦戦もしたが、勉強熱心な彼女にとって、やればやるだけ成長が実感できるその環境はとにかく楽しくて、気がつけばあっという間に仕事のコツを掴んでいった。1番大きく変わったのが、美帆子の美に対する意識だった。頻繁に海外出張があるスタッフたちからは化粧品やチョコレート、ストール、アクセサリーという、なんとも華やかなお土産をもらい、周りの女性スタッフもとても体にフィットしたドレスのようなワンピースと高いヒールで美しく着飾り仕事をする。綺麗でいることが仕事のような世界。そんな環境も手伝って、美帆子もすっかりその世界を楽しむようになっていった。日本女性らしい美帆子の容姿や子供の頃から茶道で培った所作は社内外を問わずとても受けがよく、秘書としてとても重宝された。短大卒業後すぐに家庭に入った彼女にとって、仕事もアフターファイブも上手に楽しむ仲間たちとの時間はとても刺激的で楽しくて、20代の醍醐味を取り戻すかのように外に出た。
 2年ほどでグループ秘書から引き抜かれて、重役の個人秘書になった。仕事ぶりはもちろん、そのサービス精神旺盛な人柄やハッキリとした性格が当時のアメリカ人マネージャーにとても評価された。細かいことは苦手という彼女だが、パーティーのコーディネートや要人接待、イレギュラー対応などにとても強い彼女は、当時の上司にとってとても心強い存在にだったに違いない。6年間そのポジションでの仕事を続けた。
 美帆子のキャリアの中でも、ひときわ華々しいエピソードがここにある。本社があるカタールで行われた大きな極秘プロジェクトに、日本人秘書として初めて同行したのだ。3ヶ月にわたり行われるこのプロジェクト、かねてから同行してみたいと秘書たちの間でもよく話題に上がっていた。行きたいと思ったら、その方法を探すのが美帆子。そのプロジェクトの決裁権を持つ重役にターゲットを定め、その人が参加するパーティーで話をするタイミングを作り、
「私も行きたいな」と冗談めいて話した。
「お!君も来るか!」と重役。そのチャンスを彼女は見逃さなかった。
「はい!行きたいです!なぜならば日本で普段からサポートしている私を同行させることは、きっと皆さんの時間の節約にもなるし、快適にお仕事をする助けになると思うんです。」
としっかり自分を売り込んだ。翌日にはカタール同行が確定していた。
カタールの高級ホテルで過ごす6週間は最高だった。往復もビジネスクラス。ご飯も豪華。21歳からママとして十数年走り続けた美帆子にとってときめく思い出になった。

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 秘書としてとても評価されていた美帆子だったが、長く続ける内その世界の先にこれ以上自分の成長はあまりないことを感じ始める。通常の秘書業務以上にプロジェクトを理解し、熟知している彼女に「なんで君が秘書なの?秘書っぽくないね。」と周りは言うようになっていた。
 そんな時、グループスタッフの若手の中でもとても優秀な1人に目が止まる。
「あなたすごいわね。ねえ、どうしてそんなに仕事ができるの?」率直な質問を当人に投げてみた。
「僕、リモートでMBAのための勉強してるんだよ。美帆子もやってみればいいのに。」という。
「私なんて4大出てなくて学もないし、子供もいるし、きっとダメよ。」と美帆子。
「そんなことないよ。アメリカでは子育て中の女性でも、働きながらでも、勉強している人はたくさんいるし、きっと美帆子ならできるんじゃない?学位はあった方がいいよ。」
この言葉が成長したいという美帆子の背中を押した。
美帆子の「ママになっても諦めなくていい」という志に火が灯った瞬間だった。
 実は当時から不仲だった夫といずれ別れても、子供二人を育てていける経済基盤が欲しいと思っていたところだった。キャリアを築くことは必要不可欠だったのだ。

動くと決めると彼女はとにかく早い。ビジネスと英語両方を学ぶために、日本にいながら英語でMBAを学べる学校を探し、そのうちの3校に実際足を運び、その場に流れる空気や雰囲気を吟味した。そして選んだのがグロービスだった。
 グロービスは大学院なので、入学資格は大学を卒業していること。短大卒だった美帆子は、それでもなんとか入学する方法を探し出し、別途能力診断の特別な試験を受けて、一般の受験に進み、無事合格した。お金もなかったので、貸与型の奨学金を利用した。なんとかなると思った。

 グロービスで学ぶ日々はとてもハードだった。日常の仕事に加えて受講と課題提出と目が回りそうな忙しさだったが、夫の協力もあり、仕事、学校、家事、子育てをなんとか成すことができた。何よりビジネスに本気で向き合う人たちの中で、自分が同じように話ができていること、そして成長をまじまじと感じられる環境がとにかく嬉しかった。ここでも始めはできない自分に劣等感を感じたりもしたが、できない自分を包み隠さずクラスの仲間に質問をしたり、勉強会を主催することで仲良くなり、より一層助けてもらえる関係ができていった。
 授業の中でもグループワークが得意だった。細かいことはやはりできる人たちに敵わなかったが、その人たちを巻き込んで、自分が考えたことが形になっていくことがとても楽しかった。代わりに、発信することが得意だった美帆子は、積極的にアイデア出しや課題の発表を買って出た。それをすることがまた、彼女の周りに人が集まることに繋がっていった。

6章 美帆子の志

 グロービスで聴かれ続けた問が「あなたの志はなんですか?」だった。何度も何度も聴かれるうち、美帆子の中から出てきたそれは
「ママになっても諦めなくていい社会の実現」
ママになったから諦めないとならないことが多かったことに疑問を持っていた美帆子は、ママでも当たり前に選べる社会にしたいと思い、家事代行サービスをやりたいと考えるようになっていた。これだと思った彼女は周りのみんなに話しまくった。すると在学2年目には、美帆子=家事代行というイメージが出来上がっていた。そんな彼女が実際にどうやって事業にすればいいか模索していると、話を聞いた友人が自分の知り合いにも家事代行事業を始めた人がいることを教えてくれた。
 調べてみるとネット予約も実装され業務も始動している自分が思い描いていた事業がそこにあった。正直悔しかった。これは会いに行かなければと考えた美帆子は、紹介してくれた友人に取り次ぎを頼み、2日後にはその事業の代表の前に座っていた。
「私をパートナー(共同創業者)にしてください。」
単刀直入な美帆子のお願いに、創業半年、サービス開始2ヶ月の会社代表はまさに鳩が豆鉄砲喰らったような顔をした。もちろん見事に断られた。
「お互いがどれだけのことができるかもわからない状態だし、とにかくお試しで手伝ってみない?」という代表の提案に、グロービスの卒業課題の材料に使わせてもらえるのならと美帆子も頷いた。
  いつの間にか、お試しで手伝うどころか、秘書の仕事も辞めフルタイムで稼働するようになっていた。それでも「資金調達ができてから」と数ヶ月お給料は支払われず、それをいろいろな人に相談したところ、給与の代わりに株をもらうといいと言われ、それを代表に伝えた。すると、
「出資していただければ株を分けるので、共同創業者になってほしい」と
過去に美帆子がしたそれと全く同じ提案をされた。これに対して美帆子はとても迷った。学業や研修など、自分の成長や将来につながる投資はいとわない彼女だが、正直この会社の株が未来の自分にとって本当に良い買い物なのか自信が持てなかった。もしかして捨てることになってしまうお金と考えると、見返りがないかもしれない大きな出費に躊躇した。
そんな時すんなり背中を押してくれたのが、お母さんだった。
「みーちゃんがいいと思って働いてる会社なんだったら、それでいいと思うわよ。」
と、深くは聞かず静かにお金を渡してくれた。感謝してもしきれなかった。
後から聞いた話だが、この時お母さんが出資金を出してくれたのは、実はずっと家事を簡単なことだと馬鹿にしてきた父への挑戦状だったという。家事がこんなに報酬をもらえる仕事で、ビジネスになるほどのモノなのだということを証明したくて、美帆子の先にある家事代行事業を応援したかったのだという。まさに美帆子を通してお母さんは自分のやりたかったことを叶えていたのかもしれない。
 株を手に入れてパートナーになって、初めての給料が支払われたのは手伝いを始めてから約1年後。始めの手取りは8万円だった。
グロービス時代はキャリアを積むためならと献身的に支えてくれていた夫も、秘書を辞めベンチャー企業の手伝いにのめり込む妻に口出しせずにはいられなくなっていった。俺が食わせてやっていると言わんばかりの夫の言動は日に日にエスカレートしていき、とうとうある時
「俺の金だ」と言われた。心底悔しかった。
「自ら選んで堂々とやってるはずなのに、経済的に自立してないことがどうしてこんなにも精神的な自立を妨げるんだろう。」何をするにも、どこへ行くにも夫の許可が要る状況に息が詰まった。元々冷めきっていた夫婦仲だったが、この頃の行き違いがキッカケで夫婦の溝はさらに深まり、翌年美帆子は家を飛び出すこととなる。
「本当に辛かったら、逃げていいと思うんです。自分は大事に扱われるべき人だし、我慢してその環境に耐えないといけないわけではないので。」と鋭い目で美帆子は言う。

当時の収入はパート程度。夫と別れ家を出て子供2人を育てるのに決して足りる金額ではなかった。また母に一時的に資金援助してもらい、なんとか生活をしている美帆子を見かねて、グロービス時代の友人がうちで仕事をするといいと秘書の仕事をあてがってくれた。この仕事のお陰でなんとか生活することができた。
この時期が本当に自分の人生のどん底だったと彼女は語る。精神的にも参っていて、鬱で起き上がれなくなったり、フラッシュバックに悩まされ、セラピーに通ったりもした。
それでもそんな時にたくさんの人に助けてもらったのは本当にいい経験だった。人との繋がりが本当にありがたかった。しかし家事代行会社が軌道に乗るにつれ、その友人が善意で用意してくれた仕事を手伝う時間もどんどんなくなっていき、手伝えなくなっていく。それに対して本業の家事代行会社から支払われる金額は新卒の初任給程度。手伝い始めて3年が過ぎた頃だった。公にはメディアに出始めた頃、自分の名前での本の出版や、フジテレビの人気番組「セブンルール」に出たりと忙しくも華々しいキャリアウーマンのように写っていたが、実際は収入は全く増えず、毎日の生活に追われていた。本の印税は会社名義になっていたため美帆子に入ってくることは全くなかった。子供たちには迷惑をかけたくない。だけどお金はない。そんな毎日で消耗しきっていた美帆子は、気付かぬうちに心の病を患っていた。心配した周りの人に背中を押され、精神科を受診し出た診断は躁鬱病で、翌日から1ヶ月間仕事を強制的にストップされた。その後なぜか仕事に1年近くも復帰させてもらえず、株を手放して退職するように産業医をつけて説得された。
 これをきっかけに自分の今後の生き方について改めて考え、いろいろな人に相談した結果、離職することを決断した。 
「ほんとにみんな、なんでこんなに優しいんだっていうぐらい助けてくれたんです。自分たちにも仕事や家庭もあって忙しかったろうに、私だけだったらきっと立ち向かえなかった壁を乗り越えさせてくれた。だから、あの時の御恩は絶対に忘れないし、同様に私の経験が誰かの役に立つのなら、快く協力しようと思ってます。」と美帆子は話す。
相談に乗ってくださった方には必ずその後どうなったか結果を報告するようにしている。
 私は彼女がとにかく愛される理由が、この向き合う相手に対する真心と確固たる覚悟にあるように思う。

7章 豪華客船

 離職してすぐ、今回もまたもや友人の紹介でKMJの社長のSandyこと砂子貴紀氏に会い、その日の晩にはアメリカのKonMari Media Inc. CEOであり、こんまりの夫である川原卓巳氏と3人で焼き鳥屋で夕食を食べた。ブランド力もさることながら、英語を使えるグローバルな環境、そして何よりもSandyのプロフェッショナルなマネジメントに対する姿勢に感動し、
「僕の仕事は社員の働きやすい環境を作ること」という彼の言葉にときめいた。
「大海原で漂流しているところに豪華客船が現れ、引き上げてもらうような気分だった」と美帆子は笑いながら当時を振り返った。
 2019年にKMJ入社から1年半、苦手なところはどんどん手放してよくて、得意なところをどんどん伸ばしてくれるこの環境が自分にはとても合っていると美帆子は言う。
しかし、美帆子はここでもまた劣等感を感じているという。
「ときめく仕事、ときめく仲間…なんですけど、実際は優秀すぎる仲間たちについていくのに必死ですよ。のびのびと自分らしく仕事をさせてくれていて、もちろん楽しい。でも全く余裕なんてなくて、決して楽ではありませんね。」と笑う。
 ときめくことを追求する会社で働く中で、美帆子のときめきとは何かという問いに
「『美帆子さんの個別相談があったから、受講を決めました。』という言葉を言われた時、すごくときめきます。いつも個別相談のとき心掛けているんですが、講座を売るより、その人にとってためになる30分になってほしいと思ってお話するんです。大きな影響力を持つというより、身近な人の幸せに貢献できる方が嬉しい。『役に立てたな』『励ませたな』と実感できたときが私のときめきです。」と彼女は話す。

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 今彼女は自分の理想暮らしについて考えているという。オンラインでなんでも片づく今だからこそ、仕事で各地を周り、ときめく相手と現地で会い、一緒の時間を楽しみたい。フットワーク軽くいつでも出張できるノマドワークな働き方、自由な暮らし方をしたいと考えている。子育てに追われていた10年前には想像もできなかった暮らしだ。
 「こんな私でも変われた。行動すれば変われる」という自身の経験からくる心強いメッセージを追い風に、これからも多くの女性の変化の後押しをしていくだろう。


あとがき

 まず長い文章を最後まで読んでくださってありがとうございます。
 帆船というのは向かい風に対して斜め45度でしか進めないそうです。決して真っ直ぐに目的地につくことはできない。この帆という字、決して器用ではなく、それでいてピンと張りがあり、真っ直ぐな印象が、なんと彼女の名前にぴったりなのだろうと感じました。きっとだれの人生においても、数知れない困難や苦境にいきあたることがあると思います。そんな壁にぶつかった時彼女がする、人に頼り、自分の夢や希望を語り、それ向かってどうにかその壁を乗り越えていく様は、大きな人生を渡る航海術を伝えてくれているように思います。
 パワフルで、真っ直ぐで、チャーミングで、女性らしい、なんともなんとも素敵な美帆子さんのキャラクター。出会えたことに心から感謝をして「成功の心理学」の著者デニス・ウェイトリー博士の言葉をあとがきとさせていただきます。

「まったく同じ風が吹いていても東に進む船もあれば西に進む船もある。進路を決めるのは風向きではない。帆の張り方なのである。」

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interviewer:masaki
writer:hiloco Nakamatsu

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