佐川印刷京都 vs Honda FC、勝者のメンタリティと、JFLの魅力
2014年JFLチャンピオンシップ第2試合、佐川印刷京都 vs Honda FCの録画を、新型コロナウイルス禍でできた時間で見て、改めて、両者質の高いサッカーを繰り広げた名勝負であったと思った。この試合の思い出と、2015年解散したSP京都(佐川印刷京都)のこと、JFLの魅力について記したいと思う。
はじめに
「やっぱり、だめなのかな」、私は、そう思いかけていた。1−2のビハインドで後半35分、#11細貝竜太選手が、ピッチに入るまでは。
2014 年、JFLチャンピオンシップ第2戦の私の記憶は、「1年を通して安定した質の高いサッカーをしたのは佐川印刷さんだったから、仕方ない。と、思った後半も終盤、細貝選手が入って、急に試合が変わって、あっという間に2点取り90分で逆転優」という、実に大雑把なものだ。だが、それくらい「ここぞという大事な試合で勝つHonda FC」の底力が、細貝選手が入り、「唐突」に変容したピッチとともに、私にとっては衝撃的だった。
新型コロナウイルス禍の自粛生活で、再び、この試合の映像(リンクあり)を見て感激し、また、画面を通してだが、今の自分の目で見て新たに感じたこともあり、記事にしたいと思った。そして、一人でも多くの人に、Honda FCと、今は解散してしまった佐川印刷京都(佐川印刷SC-佐川印刷京都-SP京都FC)という素晴らしいチームのことを、もっと知ってもらいたいし、記録しておこうと考えた。
今回、このNoteを書くにあたり、参考に佐川印刷さんを検索したが、記事はもとより、Honda FC以上に、個人のBlog等の記録もほとんど見当たらない。サッカー素人の稚拙な文章であるが、もしかしたら、こういう情報を求めている人もいるかもしれないし--かつての私がそうであったように、私のような人間がいることも、何か意味があるのかもしれないと思い、これを書いている。
なお、先の文中にもリンクしたが、この試合のJFA公式JFLチャンネルYou tubeの試合動画アーカイブはこちら。公式記録は、JFL、公式サイトより、こちら。
JFL公式ページはこちら。この公式は、シンプルであるが、必要な情報がコンパクトにまとめてあり、以外と使い勝手がよい。過去の全記録があり、左のMain Menuよりたどれる。過去記録の見方も作っておいたので、詳しく見てみたい方は、ぜひ、どうぞ。
1.2014年のHonda FCのチームの状況
Honda FCは、2013年の前半戦は、翌年よりJ3が誕生するということで、一気にモチベーションの上がったJリーグ参入希望チームのガッツに押されるような形で、なかなか結果がでない状況だった。しかし、後半戦に入り、前田元監督のサッカーが花開いて、圧倒する試合内容で、前期の黒星を取り戻す試合が続いた。
2014年、迎える再編JFLで、ここで優勝しなければ話にならない、とばかりにHonda FCは、Honda FCにも在籍した元Jリーガーで、育成指導者として実績を上げていた井幡博康氏を迎え、体制を強化。Jリーグに羽ばたいた、レジェンド古橋達弥選手も、Jリーグ入りを断念して以来のプロ契約で帰還させた。前シーズン後半のサッカーがさらに成熟し、11勝1分1敗で、JFLを席巻し、1stステージ優勝。
(JFLは、当時のJ1で試みた2ステージ制に習い、さらに、チャンスを多くのチームに与えることで、リーグ戦を面白くしようと2ステージ制をとった。)
ところが、怪我人の続出した7月、天皇杯県予選で、初めて藤枝MYFCに6失点で大敗。そこから、チームは、ポジションをいろいろ試し始め、2ndステージは5勝4分4敗。J3組がごそっと抜けたJFLで、6位と言う結果だった。2ステージ制とチャンピオンシップを踏まえ、2ndステージは、試行錯誤とチャレンジを試みた、とも言えるかもしれないが。
2ndステージ、アウェイ佐川印刷戦では、遠征に行かれなかった仲間は、サポーターから送られたフォーメーションを見て、「えーっと、私のスマホが逆なんだろうか」と思ったそうだ。DFラインが「6-10-11-14」、MFが「2-5-20」、FWが「8-16-17」という超攻撃的なのか、守備的なのか、ポリバレント能力を生かしているのか、という、素人の常識でははかれない布陣であった。結果こそ0−1という最小失点であったが、攻撃が売りのHonda FCがシュート数、6対12でいいところなく完敗した。
2.2014年、佐川印刷京都さんのチーム状況
対する、佐川印刷さんは、佐川印刷を強くした名将辛島啓珠監督に加え、2014年、コーチ陣に、提携した京都サンガから森岡隆三さんが出向。セレッソ大阪でキャリアをスタートした江添健次郎さん。GKコーチ兼選手として、Jリーガにこそなれなかったが、小柄ながら、JFLでは優れたGKとして名を馳せた森本悠馬さんを迎え入れた。タイトな守備から機をみた速攻、アトレティコ・マドリードタイプの硬質で洗練されたサッカーで、2ndステージ優勝。通年では、1位の安定した成績を収めた。選手も大学出身の能力の高い選手を有し、解散後も、多くの選手が請われて他チームに移籍。その出世頭が、現ヴィッセル神戸の藤本憲明選手であろう。
3.2014年チャンピオンシップ第2試合
CS第1戦は、Honda都田サッカー場で行われた。Honda FCは、先制を許し、逆転しながら追いつかれての2-2の引き分け。
西京極での2ndレグ、も後半7分で、1-2で佐川印刷SCがリード。時間の経過とともに、ますますぱっとしないHonda FCのパフォーマンスに対し、さらに優位に試合を進める佐川印刷。Honda FCは、時折、持ち味の、あうんの呼吸の連携の攻撃を見せる時もあったが。ハーフタイムに顔を合わせた、顔なじみの、今はボランティアスタッフの元事務局重鎮の方が、「印刷さんには、型がある」とつぶやかれ、なるほど、そういう言い方をするのか、と勉強になった。
ところが、2枚目の交代カード、73分、細貝選手が入り、ピッチ上が一変し、あれよあれよとHonda FCは2点取り、優勝してしまった。まず、#16ボランチの土屋貴啓選手の、中央からの長いスルーパスを受け、走り上がった細貝選手のシュートで80分同点。「おっ!延長戦に持ち込めるかも」と、私は思った。が、私の予測にまたしても反し、Honda FCは、さらに果敢に攻め、87分、細貝選手がクロスを上げ、#20栗本広輝選手が頭で合わせ勝越点。そして、試合終了のホイッスル。第2戦、延長戦になることもなく、90分で、Honda FCは優勝した。
私は、喜びを爆発させる選手たちを見つめながら、「本当に、勝つんだ。ここぞって試合で」と、少しぽかんとしてしまった。それを初めて思ったのは、以前noteで書いたこの記事のFC町田ゼルビア戦の時だった。
4.勝者のメンタリティ、チームの哲学とレガシー
私が、かつて14年応援していたJリーグチームは、いわゆる「シルバーコレクター」と揶揄されるチームであった。それも立派な成績であると、私は思うが。
帰り道、知人と「勤務時間の差が、最後、体力にでたのかな」なんて、話した。それは、確かにあると思う。Honda FCは企業チームであるが、設備、練習時間共々、セミプロに近い恵まれた環境にある。佐川印刷さんも恵まれた企業チームではあったが、1日、みっちり勤務してからの練習であった。
では、細貝選手がキーマンだったのか。確かに、卓越した攻撃センスを持つ選手で、流経大時代もJFLに参加し、現浦和レッズの武藤雄樹選手とチームメイトで活躍した。大事なピースではあるが、彼によって試合の流れを引き寄せた、というのとも少し違うようにも思う。Honda FCは、優れた選手ばかりだし。なんというか、やっぱり「突然」と見える。
ただ、ピッチ上の選手は、本職としてまた違うものがあったのかなと今は思う。試合の流れを読んでいたのかもしれない。Honda FCの選手は、サッカー脳にすぐれ、チームに哲学とレガシーがある。「勝つためにどうするのか」、選手は常に試合の流れと、相手を見て試合をしている。それは、代々、選手に受け継がれ、染み込んでいる伝統だ。指導陣も、ホペイロやチームスタッフも、入団のスカウティングに当たるスタッフも、基本的に元選手である。
そういう、伝統の差や、ヒエラルキーがあるのも、サッカーの面白さだと私は思う。100年の欧州と日本の差は、永遠に平行線だ。また、ラ・リーガでバルセロナとレアル・マドリードの2強を倒すために、他チームが切磋琢磨しリーグの繁栄があがるように、JFLは、Honda FCや上位チーム、伝統あるチーム、新興チーム、とバランスがとれ、リーグとしての安定感や秩序がある。
5.試合の思い出
ただ、本当に「突如」というのは、印象としてある。今回改めて、この試合の映像を見て、私が思っていたより、ずっと細貝選手が入るまでも、Honda FCには良い攻撃が結構あった。それが、試合の流れ、チーム状態と関係なく「突如」出現するのである。
ものすごく尊大で、雑な素人考えの例えをすると、ロシアW杯のアルゼンチン対フランス、チーム全体としていまひとつ冴えないパフォーマンスのアルゼンチンが、試合の流れと関係なく、圧巻のゴールを決めてしまうような。
前半、流れるようなパスの連携から、当時20番だった栗本広輝選手(現USLのColorado Springs Awitchbacks FC)のシュートで終わった攻撃は、思わず、試合を忘れ、ニコニコ楽しく見とれてしまった。これが、知人が、後ろに座っていた職場の元選手、OBの方々が、「今の(外したシュート)は、査定に響くな、わっはっは」と言っていたというものであろうか。こういった会話を耳にしたり、Honda FCの試合は、たとえ状態が悪くても、サッカーの面白さに溢れている。サッカーに純粋で、ギスギスしない。JFLというリーグにも言えることであるが。
同点に追いつく#15原田開選手の、正面やや左から、カーブを描き左に決まるFKも鮮やかである。そのFKを得るまでの、パスの展開、現鹿児島ユナイテッドで活躍する、4番砂森和也選手をはじめ、実にサッカーが楽しそうだ。
そして、細貝選手が入ってから、一気に畳み掛けて行く攻撃、小さな1台のカメラの映像で、十分、ワクワク堪能できる。勝越点で、選手たちの笑顔は、こんなにも輝いていたのかと改めて、懐かしい気持ちでいっぱいになった。
早く引退したエース8番香川大樹元選手の、ひらひらっとした動き、大型FWだった伊賀貴一元選手、後方を支えるDF陣も、私がHonda FCを見始めた時の選手で、思い出がいっぱいある。また、入団2年目から現在も主将を務める#5鈴木雄也選手が、ボランチに入っている。彼は、攻撃センスも高いので、ボランチもいいなと思う。
佐川印刷さんの得点も、Honda FCの守備の弱点をついて、お見事。先制点、19番堀川智雅選手は、九州産業大学、Honda FCの三浦誠史選手の先輩。その後、彼が移籍した、関東リーグのVonds 市原で再会した時も、佐川印刷さんの試合後の選手のお見送りで、私と話したのを覚えていてくださった。FWらしいポストの役割をよくこなしていると思う。
2点目の佐藤和馬選手は、その後、JFLの奈良クラブ、鈴鹿ポイントゲッターズと、人気・実力共にエースとして、チームをけん引している。
試合は、両チームカード1枚ずつ、で非常にクリーンであったことも、実力の伯仲した好ゲームにつながっているのではないだろうか。Honda FCのカードは、終了間際、相手の攻撃を止める、栗本選手のいわゆる、ここで止めなければならない「プロフェッショナルファール」だろうか。
6.さらに、佐川印刷京都さんとサッカーの面白さについて
試合の後、佐川印刷で引退する大槻紘士選手のセレモニーがあった。京都サンガユース、トップチームを経て佐川印刷へ。地元一筋の選手である。号泣する大槻選手に、思わずもらい泣きしそうになった。翌年、解散する2015年、大槻氏は監督に就任。
GKコーチ兼選手であった、森本悠馬選手は、八千代高-学芸大と大学サッカーでも鳴らし、私の故郷の富山、北陸アローズ所属。アローズが同じ富山のYKK APと合併してカターレ富山になりJ3に昇格する時に、FC琉球に移籍し活躍。FC琉球時代に、試合を見て、私が見たアローズの試合で、ベンチに入っていたことを思い出した。Honda FCとは別に、沖縄でFC琉球の試合を見に行った時に、試合後のやはり選手のお見送りと、練習見学に行き、お話をした。
2014年、都田サッカー場でのSP京都戦、試合直前に痛んだGKの代わりにピッチに立ち、久しぶりに、しかも都田でプレーを見ることができ、とても嬉しかった。栗本選手のPKを、フェイントを入れた動きで外させ、つい、「にまっ」としてしまった。彼を知った時、わたしは、まだJリーグチームのファンで、その後、自分がJFLチームのファンとして、再会するとは思ってもみなかった。
また、SP京都で選手として引退したあと、森岡コーチと京都サンガユースの指導者入り。なんと、その2015年1月、都田でHonda FCと遠征していたサンガユースと練習試合があった。そこで、ささやかながら、引退の花束をお渡しすることができた。
2014年で、高知大学出身の中野圭選手は、故郷のFC今治に移籍。現在もプレーを続けている。高知大学サッカー部も私の好きなチームだ。2017年のJFL選抜ミャンマー遠征に選出され、遠い異国の地でプレーを見られて嬉しかった。
解散するSP佐川印刷から、2016年、藤本憲明、麻生瞬、GK山岡哲也選手が、チーム解散後移籍。2015年秋、奄美大島開催で開催された、鹿児島ユナイテッド戦の相手が、SP京都だった。奄美大島での初のJFL公式戦であった。(鹿児島ユナイテッドは、Jリーグに参入したので、奄美大島で全国リーグの公式戦があることは、当面ないだろう。)
ところが、鹿児島ユナイテッドは、昇格へのプレッシャーに押し潰され、1-3で敗戦。うなだれるユナイテッドの選手とは対照的に、島民に、紳士的にファンサービスするSP京都の選手の姿は、鹿児島ユナイテッドサポーターも感心するほどだったという。その鹿児島ユナイテッドサポーターさんたちも、解散するJFLの仲間チームに「ありがとう」の横断幕を出し、一緒に記念撮影。そして、鹿児島ユナイテッドは3人を引き抜き、J2昇格への推進力とした。誰にも恨みをかわない、互いに感謝できる、見事な移籍話だと思う。
サッカーを長く見ていると、だんだん、「あ、あの時の選手だ」とか、繋がってゆく物語がたくさん増えて行く。時に、思わぬ再会をしたりすることも、サッカーの大きな醍醐味の一つと思う。JFLは、選手とファンの距離も近く、サッカーをそのものを通したコミットが深い。
2014年の西京極には、J3に一年で昇格した、レノファ山口さんの友達になったサポーターさんもきてくれたり、JFLのチャンピオンシップは、カテゴリーも問わず、いろいろなチームのファンやサポーターさん、さらにはサッカー関係者も集う交流の場のような側面もあった。(Honda FCが、2年連続して完全優勝したのもあったか、今季からまた通年のシーズンに戻った。)
7.J3誕生がもたらしたJFLの変化とその可能性
JFLには、よいチームや選手がたくさんいる。私は、特に、2014年佐川印刷京都さんと、石川雅人元監督の時の、コンパクトで、徹底して相手のよさを潰す守備と、攻撃が調和した(ワンパターン比喩だが)アトレティコ・マドリードみたいなソニー仙台さんが、とても気に入っていた。Honda FCの試合でなくても見に行ったりした。
長くサッカーを続けるために、プロとは言い難い環境も決して少なくないJリーグクラブより、JFLの企業チームを選ぶ大学卒業の選手も増えている。皮肉なことに、あれだけ、プロ志向の選手が目の色を変えたJ3誕生だったが、1年後に「食べていかれない」という話が、特に大学サッカーの選手の間に、あっという間に広がり、JFLの企業チームの価値を高めてしまった。宮崎市の優良企業チーム、ホンダロックSCは、それまで地元のサッカー少年たちが、サッカーを続けるためのエリートコース的受け皿であったが、全国の大学サッカー選手から、練習参加の希望がくるようになった。
もちろん、現在、J3も充実してきているし、これはJリーグの課題だと私は思う。ブンデスリーグのような市民クラブ型をJリーグは目指したはずだが、結局、J1でもビッグクラブは、ほぼ全部、母体はJSL時代からの企業チームである。今も、メインスポンサーとして、その後ろ盾があってこそである。おそらく、唯一、営業利益で賄えている浦和レッズさんでさえ、そういう側面はあるだろう。あまりにも性急に、チームを増やしすぎてきたようにも思う。もともとフットボール文化が土台にないし、文化に対して投資するという概念が乏しい日本で、企業チームがベースであるのは、一つのあり方かもと、私は思い始めている。
だからこそ、JFLには、地元に愛される、欧州にあるような街クラブになる可能性があるとも思っている。その気にさえなれば。
おわりに
今年は、新型コロナウイルス禍で、今までのように、「遠征はどこでも行くぞ」という熱心なサポーターの方々も、元の生活に戻るのに、長い時間がかかるかもしれない。まだ、JFLも観戦可能になるのはいつか分からないが、近くのJFLの試合にぜひ、お時間がある時に足を運んでみてはいかがだろうか。日本女子サッカーもそうだが、苦労していたり、職場の理解がある上でサッカーをしている選手も多く、純粋でひたむきである。
のんびりと、サッカーそのものが楽しめることを、そして、あなただけの気づきがあることを私はお約束する。
(※Honda FCと佐川印刷京都さんの試合中の写真は、当時はまだ一眼レフを持っておらず、あまり写真を撮ることもしていなくて、2014年1stステージの都田での試合を使用。試合以外は、選手のバス待ち、試合後の選手のお見送り時のもの。以下、使用写真の試合リスト。)
・2013年、FC琉球 vs ヴェルスパ大分 ・2014年、Honda FC vs 佐川印刷京都、1stステージ、CS1st、2nd ・天皇杯県予選 vs 藤枝MYFC ・2015年、SP京都 vs ソニー仙台