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「留学」①

振り返れば7年前だ。

高校2年の夏、ただ部活の顧問が嫌だったのか退部者が次々に出たからなのかはわからない、ただ「留学」に惹かれた。


幼少期から海外の映画や音楽が好きだった。
いつも車で遠出をする際、夢現の車内で父がかける70's、80'sが好きだった。共感してくれる同世代は少ないが、Billy Joelはいつまでも私のPiano Manだ。

初めての海外渡航は5、6歳で家族と行ったハワイ。
思い出せるのは、パイナップル工場へと続く虹がかかった草原の景色と、ウミガメと泳いだ記憶だけ。
二度目の海外は10歳頃のオーストラリア、ケアンズへの旅行。これまた記憶が抜け落ちているが、美しいグレートバリアリーフで溺れかけたことと、鬱蒼と茂る熱帯林の上を走るロープウェイ、その駅に辿り着くまでのサウナのような蒸気機関車。

全ての景色、感覚が新鮮だった。



英語が得意だったわけではない。
今でもそうだ。中学、高校と英語の成績はたまに赤点、よくて70点代後半と中の下くらいだった。文法もよくわからず、当時の私にとってはアルファベットもただの海外で使われる記号だった。
転機は高校2年のときだった。
「英書講読」という選択授業を受けた。ただ部活の友人と受講することだけが理由だったが、この時の選択が今の私を作り上げている。
担当のN先生は若く、初めて私の学年を担当する方だった。毎日朝練をして授業を受けていたため、何度うたた寝をして注意されたかはわからない。要は授業を熱心に受けていたわけではなかった。

ただN先生の授業はそれまでの英語の授業とは違い、詩や映画、歌から英語を学ぶというスタイルだった。

ある授業でBruno Marsの”Just the Way You Are”を翻訳するというグループワークをした。自分達で辞書をひき、言葉の深い意味まで考え、英→日に歌詞を訳す。
これが私の英語感覚を変えた。それまで聴いていた洋楽が、母国語のように意味を持ち、様々な解釈を生む、私にとって英語が"音"から"言葉"に変わったタイミングだった。

それから英語への取り組み方が変わり、他の授業への姿勢が変わり、自分も変わることができた。
間違いなく、私の人生のターニングポイントの1つだと考えている。(いつかN先生に再会できたらお礼を言いたい。)

英語に興味を持つようになり、留学を考えた。

夕食の卓上で母に初めて相談した。
部活を辞めたいという話と共に。当時のチームの雰囲気があまり好きではなく、違うことを始めたかったのだと思う。母はyesかnoではなく、「しっかり考えたのか」という質問をしてくれた。私の記憶は3年ともたないため一言一句思い出せるわけではないが、しっかりと会話を重ね、母は私が後悔しない選択ができるように一緒に考えてくれた。

結果として部活をやり続けることを選び、高校では留学をしなかったわけだが、このタイミングで母がある留学プログラムを紹介してくれた。


それが私と「トビタテ留学」の最初の出会いだった。

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