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「脱」頑張る宣言

 私の人生は「頑張る」ことをモットーに働いていたように思います。それは学生時代から今まで全力を出すことを美徳のように語る環境にあわせて働いたからだと思ってます。一人一人が頑張りが組織全体の士気が上がり、また頑張ることで個々の仕事のクオリティが良くなり、しいてはそれが売上だったり、会社の発展に大きく寄与することにつながります。
 私もそんな世界観の中ずっと生きてきた過去の経歴は以下のプロフィールの通りです。

 頑張ること…それは会社では営業で数字をとってきたり、自分の時間を「自己投資」として資格勉強したり…また書店にいけばビジネス欄に「頑張る」ためのモチベーションをあげる、または維持するための自己啓発本がベストセラーになっていたりします。兎にも角にも「頑張る」のが美徳な世界に我々は住んでいるようです。
 
 確かに頑張ることは正しいことです。
 
 英語を勉強すれば海外で働く機会が増えるでしょう。需要が高いプログラミングができれば会社で重宝されるだけでなく、フリーで稼ぐことも可能になります。私自身も「とりあえず」今後のために朝早く起きてTOEIC勉強をルーティンにしていた時期もありました。また仕事をいち早く覚えるために空いた時間に練習をしたり、関連するテキストを見直したりもしておりました。恐らくこれを読んでくれた皆さまも似たような経験、あるのではないでしょうか。
(何の実績のない、ただの無職がこれから人生論的なことを語ります。その辺はご了承下さいませ。)
 

「頑張る」…とは?

「頑張る」こと。
 それは何かしら「目標」があり、それに向けて勉強なり練習なり、または業務を継続していくこと。そしてそれを全力でそれに取り組むことを意味します。
 私も大学の部活動時代から先輩、同期からそれを言われ続けて、それを自然と受け入れて美徳であるように感じてました。
 また社会人となっても「負けるな」「もっと努力だ」「全力を尽くせ」と上司や先輩に言われ続けて「頑張って」きました。
 そう周囲から言われると頑張ることが正しいものと思っていました。
 ただ結果として全力で頑張ってきたものの、結果は不甲斐ないものでした。毎日勉強した英語も結果が振るわずに、それが元で辞めてしまいましたし、周囲から真面目と評価はされるものの「頑張った」仕事に成果が出せなかったりしました。
 今、無職となりこれまでの人生を振り返ってみると、
「全力で頑張る」→「息が切れる」→「結果が出ない」→「諦める」→…
という無限ループを繰り返してきました。「果たして何のために「頑張る」のだろう私は」と自問自答している今日この頃です。

あやうく一生懸命生きるところだった

 そんなときたまたま図書館で私の悩みのヒントになりそうな本をみつけました。それがこれ。

「あやうく一生懸命生きるところだった(ハ・ワン著)」

ダイヤモンド社

 そもそも「頑張る」とは何だろう…会社から推奨される資格取得のため仕事後や貴重な休日を使って勉強する。上司から課せられたノルマを達成するために営業をすること。もちろんですが今の仕事が好き、または売上の数字を上げることが楽しい人もいます。その方のやる気を否定するつもりは全くございません。
 しかし私はそのやる気は自分が求めたやる気ではないように思うのです。すなわち誰か、この場合は会社や上司にあたるものが私に課せてきたものであって他人のために使ってきたやる気だったのです。
 

やる気の根底には愛情がある。
やる気とは自ら作り出すものであり、誰かに強要されるものでは絶対にない

あやうく一生懸命生きるところだった
P.37

 著者ハ・ワン氏も会社勤めをしていた当時は、

頑張って(ハイハイ、いつも頑張ってますよ
ベストを尽くせ(すでにベストなんですが…)
我慢しろ(ずっと我慢してきましたけど…)

あやうく一生懸命生きるところだった
p.8

と、言われ続けてきたそうです。特に著者の国、韓国は日本以上に競争社会だと聞きます。そのストレスたるや恐らく我々以上のものがあるのでしょう。

 それをずっと我慢しながらベストを尽くしてきたものの、幸せを感じるどころかどんどん不幸になる気がしてきたそうです。
 私も思えばこれまでの頑張りは他人のためのやる気、頑張りだからだったと思います。他人のための努力、それは会社の利益であったり組織の理念、理想のためだったり…それらを「君たちの成長のため」と刷り込まれ(洗脳?)、その「自分たちの目標」として掲げて(?)皆が頑張る…私もその一員でした。
 先も言いましたが、それを突き抜ける努力することができる人は良いと思います。ただその努力はある意味才能ではないかとも思うのです。どんな才能も万人ができる訳じゃありません。才能は人それぞれ。自分に合わない才能を求めていたのかも知れません。

やる気の根底には愛情がある。
やる気とは自ら作り出すものであり、誰かに強要されて作り出すものでは絶対にない。

あやうく一生懸命生きるところだった
p.37

「脱」頑張る宣言。本当にやりたいこと

 頑張ることを辞めたいと思います。
 それは先も述べた通り「他人のためのやる気、頑張り」から脱するという意味です。本当に自分のために頑張りたいと思います。

本当にやりたい仕事は”探す”のではなく”訪れる”ものなのだ

あやうく一生懸命生きるところだった
P.151

本当にやりたいことが何なのかわからない?
でも大丈夫。無理やり探そうとしなくていい。
いつの日か、向こうからやってくるから。
人それぞれのやり方で恋愛(仕事)すればいい

あやうく一生懸命生きるところだった
P.156

 ただ正直、著者はそう励ましてくれますが、これまで「頑張る」生き方をしてくると言葉では理解できますが、気持ちがしっくりこないのが現実です。その私のなかから湧き出る「仕事(やる気)」をこれから待ってみようと思います。

これまでの人生は失敗?

「脱」頑張ると思い至るまで思えば随分と時間がかかりました。
 ダメな自分を恨み、苦しみ歯がゆい思いを公私の場で何度もしてきました。
 我慢して頑張ることが美徳と考える私は決断力が足りなかったように思うのです。それは今まで「勇気」が足りないように思います。

失敗を認める勇気。
努力と時間が実を結ばなかったら、潔く振っ切る勇気。
失敗しても、新たなことにチャレンジする勇気。

あやうく一生懸命生きるところだった
P.66

 例えば海外転職でタイの日系商社にいた頃、結果を出そうと必死でした。ただ頑張れば頑張るほど思うような結果も出ずに、私を送り出してくれた家族や元同僚達にダサい姿をみせたくないために無理して海外生活を過ごしてきたように思います。ただ内心では「営業は私には合わないな」と感じてはいましたが、撤退する勇気はその当時はありませんでした(結局は持病の再発と世界的なロックダウンの影響もあり帰国しました)。
 また帰国後に着いた湯灌・納棺師の仕事もそりが合わない同僚達に無理やり合わせていました。彼ら彼女らからのご指摘(ストレスの吐口)も聞いてきました。しかしそれを辞めなかったのは「正社員」としてきちんと働くことが一人前の大人だと思っていたからです。
 情けないですが他人の「頑張り」の中で生きていました。
 
 ただ今は上記のような「勇気」を持つようにしたいです。また、これまでの人生も「失敗」してきたからこそ今の境地に至った訳です。確かにこれまでの選択でこういう生活を送ってますが、その中でやりたいことをじっくり探す時間と捉えてもいいように思います。

 しかし、先に述べたような人生を過ごしてきたのでそれは容易ではないでしょう。ただもう「〇〇だから頑張る」という他人のために努力することは辞めたいなと思います。
 これからも不安に駆られたり、悩むことが増えてくるでしょう。まだ私のうつ病は治ってはいません。今日は調子が良くても明日は動けない日があるような不安定な日々を過ごしてます(このブログも体調がいい日に一気に書き上げてます。不定期に上げているのはそのためです)。
 次の一手つまり人生の目標は今のところはありませんが、とりあえずは「やりたい仕事は”探す”のではなく”訪れる”」ものと考えて待ってみようと思います。これが私の「脱」頑張る宣言です。
 
 ありがとうございました。


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