中原中也とカネコアヤノと日常と
中原中也の「月夜の浜辺」という詩が好きだ。
初めて知ったのは、僕が高校2年の時の現代文の授業の時。この詩を見ると、胸がぐっと苦しい気持ちになる。
ボタンが何を表しているとかそんなことはどうでも良くて、とても静かで悲しく優しい詩だな、という印象を持った。
月夜の浜辺に出て、たまたまボタンを見つけて、それを拾ったという、というそれだけの詩なのに、どうしてこんなに美しいのだろう。
誰でも、何でもないものに心が動かされることはあるのではないだろうか。このような言葉にならない心情を、この詩は見事に表してくれている。
中原中也は、1907年に山口県に生まれ、1937年に30歳の若さで夭折した詩人である。
「月夜の浜辺」は、1937年に、1936年に2歳の若さで急逝してしまった長男文也に捧げる詩集『在りし日の歌』に収録されたため、前後の諸事背景から、文也に向けて綴られたものなのではないかと言われているとのこと。
その他、弟たちも自分よりも前に次々と先立たれている。ただ、それらがこの詩に影響しているかどうかは分からないし、知る由もない。
そう言えば、昔、日本テレビ系列で「知っているつもり?!」という番組で中原中也のことを取り上げていたことを思い出した。あの番組は、あまり取り上げられることのない偉人にもスポットライトを当てていて、非常に良い番組だった。
この「月夜の浜辺」を知ってから20数年、カネコアヤノの詩に、「月夜の浜辺」を初めて鑑賞した時の気持ちを思い出させた。
「こんな日に限って」という曲である。カネコアヤノが中原中也の「月夜の浜辺」を知っていたかどうかは分からないし、どのような思いを抱えていたかは分からない。ただ、何でもないものに、心を動かされているところや、淡々と悲しみを捉えているところが、「月夜の浜辺」に似ているな、と思ったのである。
カネコアヤノの詩にも、言葉にならない、悲しみの心情が見て取れる。
「月夜の浜辺」と「金色に光る完璧な海」で、時間軸は違えども、海には人間の心を捉える大きな物があるのだろうか。
12月19日(木)は、待ちに待ったカネコアヤノのライブ。非常に楽しみである。
今日の夕食は、ふるさと納税の返礼品で受け取った焼津市の骨付きのマグロから身を剥いで、食べた。
この記事を書きながら、モンブランを食べる。
そんなこんなで、日常は続いていく。日常は悲しみもあり、面白みもある。