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おみどう

子供が通った幼稚園、それはカトリックの幼稚園で園長先生は神父様。
我が家族はキリスト教徒ではないが家から近いから、という理由で子供に通わせていた。

毎年正月の2日は近所の寺に挨拶、数件。
もちろん菩提寺も含めて。
今年はその帰りに件のカトリックの幼稚園にある教会へ立ち寄ってみた。
誰もいない、しかし誰でも入ってよいのだ。

ここにはパイプオルガンも設置されており、時折音楽会などが開かれている。

信者でもないので一番後ろの席に座らせてもらい、正面のキリスト像を見る。するとスーッと気持ちが静かになるのがわかる。
これなんだな、、若い頃にイタリアやフランス、ブダペストの教会を巡る旅をした。それは木製の椅子に座らさせてもらい正面のキリスト像を見ると気持ちが休まるからか、それともそれが何も教会でなくたって、そういうシチュエーションであれば同じ現象になるのか、それはわからない。

ブダペストのある教会で、私が木製の椅子に座っていると、通路を挟んだ左側の席に座っていた高校生くらいの男の子が何か思いつめたような顔をして座っている。しばらくして、パッと目覚めたような、何か気持ちが決まったように顔を天に向けて席を立った。その瞬間、私には全く関係ないことだが、何かこちらもうれしいような気持ちになった。

昨日も私はこの男の子のように何かに目覚めたわけではないが、座っていると確かに気持ちが休まった。

話は変わり中学生のころ、長谷川さんという登山家が当時放映されていた「オーケストラがやってきた」という番組に出演された。長谷川さんは名だたる世界の名峰に登っているらしいが、その時は山で必ずクラシック音楽の録音を聴くのだという。死と隣り合わせのように思える登山でそんな余裕があるのだろうか、そんなことを思ったが、長谷川さんなりの効用があるらしい。

この放映ではN響のホルン奏者がモーツアルトのホルン協奏曲を演奏した。これも長谷川さんが山で聴く音楽なのだという。私は登山には興味はないが、たまたま音楽に興味があり、その流れてこの番組をよく見ていた。

ところでなぜそんな危険と隣り合わせの登山をするのか、私にはよくわからない。長谷川さんは、山に入り、危険な山を登る時、そして登りきるととても心地がよく、もっと険しい山、危険な山に挑戦すればその効用が更に深まるのでは、そういう思いでやってきているのだという。

長谷川さんの登山と私の教会巡りでは全く違うのだが、ふと思ったことは、これもどこか共通点があるのかな、と思った。更に大きな教会、神秘的な雰囲気の教会へ行けば自分の気持ちも更に休まるのでは、そんな期待があったことは確かだ。

心の平安、静けさ、何かのきっかけで自分がそう思えるのなら同じではないか。

教会の一番後ろの席に座りながら、そんな遠い昔のテレビ番組の記憶がよみがえった。


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