小説「いい奴/山下眞史著」※全文掲載 ※拙書短編集「現実錯誤」より
「いい奴」
雪も散らつかんばかりの冬空の下。コートのエリを立て、スーツを着た男がカバンを抱えて暖簾を掻き分けて入ってきた。
「らっしゃい」
「何にしようかな。エーと、大根とハンペン。ああ、あと酒もね」
「へい、ツミレはいいのかい?」
「ええ。ちょっと懐が淋しくてね」
おでんの親父はコップに酒を注ぎ、箸と一緒に手渡した。
「近頃はみんな内側が寒いって言ってるからなあ。なんとかしてもらわないとワシだって寒くなっちまうよ」
汁飛ばなかったかい?菜箸から卵が滑り落ちた。拾いなおし皿に乗っけると、
「ほらこれでも食べなよ。今日のは特によーく味が染み込んでいるからさ」
車が走り去る風を、少しの間の背中に受け、それが一瞬寒さを促した。
「俺もねえ、あとどの位この商売やっていられるかわかんないねえ」
「俺もって?」
三十代半ばの男、名前は敏夫。彼は熱い大根を頬張りながら聞いた。
「いや、その、ねえ。もうすぐ定年ってやつかい?あんたは決まっているようで決まっていないというか。ワシの場合はないからなあ」
余計な事を言った、そう後悔しているおでんの親父の表情が、コップ酒のガラスに歪んだ。
「まあ客の中には親父さんのことを羨ましがる輩もいるんだろうねえ。まるで他人事のようにねえ」
「確かに他人事ではあるけどな」
「親父さん、お愛想」
となりにいた若い二人組が、しんみりと立ち上がった。
「えーと、じゃあ千二百円」
二人はお金を渡すと、
「親父さんうまかったよ。また来るよ」
そういって、屋台の後ろの自転車置き場へ消えていった。
「あの子たちよく来るの?」
敏夫は何気なしに聞いた。
「あの子たち、ねえ。やめてくれ、子ども扱いするのは。彼らももう立派な大人なんだからさ」
ハッとした表情をして、
「すまんねえ」
おでんの親父は謝った。
「いや、いいですよ。親父さんの言うことはもっともな話だよ。今のは私が間違っていたんだ。むしろこっちが謝らなければいけないくらいですよ」
親父は椅子の腰掛け、煙草に火をつけた。
「でもね、正直ワシも子供にしか見えねえんだよ」
敏夫は黙って耳を傾けた。
「彼らはまだ独身で、もうすぐ三十路だっていってたな。でもさ、ここで話す話題ときたらなあ。こっちが心配したくなるような話しかしてないんだよ」
「へえ。例えば?」
コップ酒のお替りを頼んだ。
「例えばって言われたら困るが、そうだなあ。例えば年金のことだとかね」
敏夫は怪訝そうな顔をした。
「2025年には老人の人口が20%を超える国がほとんどらしい。日本は2010年といわれているのは知ってるよな?どの国でも実際に高齢化社会になってくのは承知の事実だ。意図していたかどうかはわからんがね。だのに日本ぐらいだそうだ。これだけ高齢化社会に危機感を抱いているのはね」
実際、自分も危機感を持っている敏夫は黙っていた。
「なあ、どうしてだと思う?」
親父は火の調節をしながら敏夫に聞いた。
「そうだねえ。皆自分のことばかり考えているってことなんでしょうねえ」
親父はびっくりした表情を、敏夫に押し付けた。
「いやいや。それは間違いではない。ただもう少し違うんだと俺は思う」
敏夫は目線を落としたままだった。
「老人を邪魔者扱いしてるんだよ。でなかったらこんなに騒いだりしねえさ。大切に扱うという金メッキだな。一旦剥がせば、下はどろどろとしたもんさ」
敏夫は、つい最近会った話を持ち出した。
「老人を大切に思うことはいいことなんじゃないですか?それが出来ない若者が多すぎる。でも、つい最近電車の中でね、さっきいた彼らくらいのサラリーマン風情がシルバーシートに座っていたんですよ。その横には茶髪の若者の二人組み。私はその前に立っていました。私が乗った駅から2つほどしてからだったと思うんですが、おばあさんが手に本を抱えて乗ってきたんですよ」
親父は台の上に肘を乗せ、身を乗り出してきた。
「そしたらね、サラリーマンの彼はその老人に気が付きもせずにそのまま考え事をしているようだった。茶髪の男の子達は読んでいた漫画を閉じ、そのおばあさんに声をかけたんですよ」
「へえ、それで?」
「おばあさんは始め断っていたんですが、結局茶髪の子と席を替わり椅子に腰掛けました。それを見ていて、最近の子も捨てたもんじゃあないなと、そう思いましたよ。それに加えてサラリーマンの男ときたら情なくなりましたよ。だからさっきいた彼らにその影がちらついてしまってね。社会に出てなくともまともな人間はいるんですよね」
敏夫は酒を一気に飲み干し、席を立とうとした。お愛想、そう言いかけたとき、
「ちょっとまって」
おでんの親父は酒を新たに注ぎ足し、俊夫を座らせた。
「酒代は結構。その代わり、少し私の話を聞いていってくれ」
ポケットからお金を出そうとする敏夫の手を抑え、とにかく座らせた。
「今あんたが言ったことでどうしても聞き捨てならないことがあった。だから少しワシの話を聞いてくれ」
親父は自分の分のコップ酒を用意すると、敏夫の横に座った。
「まず、シルバーシートのことだ。あれはどう思う」
「え?それは、そうですねえ、あって当然でしょう」
親父は首を横に振り、ため息をついた。
「あんたもそう思うのかい」
親父の態度に当惑しながら敏夫は続けた。
「だって考えても見てくださいよ。そうでもしなければ老人、または障害を追った方たちが迷惑するでしょう?」
「なんで?」
「だって、今の子達は自分のことしか考えていない。中にはさっき言った茶髪の子のようにしっかりと出来る子もいるでしょう。でもそれに期待は出来ない。だとしたらしやすいように用意してあげることが大人の責任ではないのでしょうか?」
そういうと、親父さんは飲んでいた酒を噴出さん、大声で笑い出した。
「何なんですかあなたは。失礼じゃないですか」
敏夫は語気を強めて憤慨した。
「悪りぃ悪りぃ。余りに面白かったもんで」
「何が面白いんですか。あなたは分かっていない人だ。私、やっぱり帰ります」
立ち上がった敏夫の手を抑え、
「ちょっと待ってや。わかっていない、そう言ったかい?」
「言いましたよ」
「その今言った、わかっていない、という言葉。そう言える人はわかっていることになるよな?」
「そういうわけではないですよ」
「いやいや。だったら何故、アイツはわかっている、とか、わかっていないとかが言えるんだい?それは筋が通らないってもんだろう」
「たしかにそうですけど」
敏夫は言葉に詰まった。
「じゃあ聞くが、わかっているというのは何のことなんだい?」
おでんの親父は煙草のフィルターをテーブルに叩きつけ、中の草を詰めた。
「それは・・・礼儀とか常識ですよ」
親父はしばらく黙って煙草を見つめていた+。
「じゃあ質問の仕方を変えよう。シルバーシートの存在をどう思うんだい?常識なのか、それとも礼儀ってやつなのか?」
敏夫は苦笑して酒を啜った。
「それは常識でしょう?困っている人がいたら助ける、それがこの社会で生きていくのに必要不可欠な常識ってもんでしょう」
一呼吸置いたあと、
「常識って言葉が合っているかどうかは分からりませんが、まあ、そういう意識を持つ、または備えているのが人間、知性を持った人間でしょうね。ほら、あのカントも言っているじゃないですか、人間には生来的に道徳心があるってね」
敏夫はアルコールにも増して、今言った自分のセリフに酔いコップの中に映った自分をうっとり見つめていた。
「カントだかなんだかしらないけどさ、知性を持った人間ねえ。それはどういった人たちのことを言うんだい?」
「え?」
「まあいい。それよりあんたゲノムは知ってるかい?」
「ええ、なんとなくですが」
怪訝な表情を隠さず、質問の意図を促すように答えた。
「ふん。ゲノムというのは生物の全遺伝子情報のことを言うんだよ。つい先日、チンパンジーと人間の遺伝子配列の差が、たった1.23%と判明したそうだ」
「へえ、猿に近い奴が多いわけだ」
敏夫は何気なしに言ったつもりだった。
「あんたは違うのかい?」
「私が猿だとでも言いたいのですか」
酔いとは関係なしに、敏夫の顔が見る見るうちに赤らんできた。
「自分は違う、そう思いたい気持ちも分からんでもないがね。でもそれが様々な問題を引き起こしていることが多いんだよ」
敏夫は無言で見つめ、話の続きの催促を、コップを強く置くことで示した。
「ただ、さっきの話だが、用意してあげるのが大人の責任と言っていたよな?」
「ええ」
「それは目に見えるものでないといけないのかい?」
敏夫は笑い出した。
「すみません。馬鹿にしたわけではないんです。ただあなたのおっしゃりたいことが見えなくて」
おでんの親父は急に立ち上がり、敏夫の胸倉を掴むと、辺りに聞こえんばかり大きな声で、
「目に見えるものを用意するのは簡単なことなんだよ!ただ見えるから、それの存在意義があやふやになってしまうんじゃねえのかい?シルバーシートがなくても譲る心を、弱者を助ける心を伝えることを続けていけよ!それが大人のすることなんだよ!目に見えるものを用意したからって、用意できるからって責任を回避できるわけじゃあないんだよ!」
狼狽した敏夫は奇声を上げつつ親父の腕を払い、
「じゃ、じゃあ聞きますが、あなたはやっているんですか?」
親父は左手の拳を握り締め、殴りつけるふりをすると、すん止めをして掴んでいた胸倉から手を放し、すごんで聞いた。
「なあ、あんたが行動を起こすことに、俺がやっている、やっていないは関係あるのかい?」
「いや、それは」
敏夫は言葉を濁した。
「結局そこなんだよ。あんたがやることに俺の行動は関係ないだろ?そんな態度を子供の前で取ってみろ?人間なんて都合のいい事はな、意識している以上に無意識のうちにまねしてしまうんだよ。そんなもんさ人間なんて。いい奴なんてのは自分の事を誤解しているか、それともなんとか少しでもまともになりたいと懇願、哀願しているやつらだけさ」
二人の後ろに、わずかな時間と共に救急車が走り去っていった。
「ありがとうございます」
敏夫は、目に涙をためて親父さんの手を握った。
「そうなんですよ。私は何もわかっていなかった。分かった振りをしていた。今夜その事実に気が付くことが出来た。あなたは、あなたは」
敏夫は声に詰まった。
「とにかく、あなたの言ってくれた言葉を胸に刻み、日々精進していきます。本当に本当にありがとうございます。今夜のことは一生忘れません」
親父は手を振り解き、
「勝手なこといってんじゃねえよ。俺はあんたに感謝される覚えはない」
そう言って立ち上がろうとした。
「いやいや、あなたこそ素晴らしい人だ。これからも色々勉強させてください」
拳は目に見えない速さで、敏夫の頬を突き抜けた。
「いい加減にしろ!勉強なんててめえでしろ!もういい大人なんだからよ」
殴った右手を振り、おでん鍋の方へ行った。
「気分悪言ったらありゃしねえ。金はいらねえからとっととその薄汚ねえ面を持って帰ってくれ」
「いえ、それは出来ません」
そういって五千円札を出すと、
「これは勉強させていただいたお礼だと思ってお納めください」
そういいながら頭を下げた敏夫に向かい、
「おめえ人をおちょくるのもいいかげんにしやがれ。てめえのはした金なんて誰が貰うかってえの。いいからそのよれた新渡戸稲造持って帰んな!」
「そんなこと言わないでください。それでは私の気持ちが治まりません。ですから」
そこまで言いかけたとき、親父の手のひが敏夫の頬を捕らえた。
「あ、ありがとうございます!」
敏夫は頬を押さえながら声を震わせ、何度も何度も会釈をして帰っていった。
敏夫の家
「なあ、今日素晴らしい人と出会ったんだよ。おでんやの親父さんなんだけどさ」
敏夫はスーツを脱ぎネクタイを蒲団の上に放ると、テレビを見ている妻に声をかけた。
「おい、聞いてるのか?」
「それより、いいとこ見つかったんですか?」
菓子を頬張りながら背中を向けたまま妻は答えた。
「いやなかなかいいところがなくてさ」
「早くなんとかしてくださいね。私の稼ぎなんてたかが知れてるんだし、貯金だってもうないわよ」
テレビがコマーシャルに変わると、ゆっくり上体を起こし、静かに振り返った。
「ねえあなた、子供達にいつまで黙っている?」
妻の目に映った自分の貧弱な肉体が、今日会ったおでんの親父さんにあった嬉しさで幾分か力強く見えた。
「おいしいおでんを食べさせてやるよって言っといてくれ」
「はい?」
あきれた表情を浮かべる妻を尻目に、敏夫は意気揚揚と風呂場に入っていった。
「いやあ、あの人との出会いは運命だな。こんな俺に厳しくしてくれる人は今までいなかった。意地でもあの人にしがみ付いてやるぞ。おーし」
敏夫の鼻歌が、狭い風呂場に響き渡った。
「探し物はなんですかぁー、見つけにくいものですかぁーか」
親父の家
「おーしいい子だ」
足元に駆け寄ってきた猫を抱きかかえ、部屋の電気をつけた。仏壇の前に来ると、残りもののおでんを供えて線香を上げて手を合わせた。
「なあ、ちょっと聞いてくれ。今日は結構お前の味に近いのが出来たんだよ」
膝の上に乗せていた猫をどけ、胡坐をかいた。
「評判よかったぜ。俺もここまで来てやっと味のばらつきがなくなってきたかもしれないな。ちょっと食べてみてくれ。冷めないうちにな」
押入れを空けて蒲団を敷き、テレビのスイッチをひねった。なにかのCMを見て、
「一生一緒にいてくれや、か。こいつはそんな女を見つけられたんかな。それにしてもなかなかいい面してやがる」
百年の孤独の蓋を開け、グラスに注ぐと、
「それにしてもだ、よくこんな歌恥ずかしげもなく歌えるな。てめえの女の前だけで恰好つければいいのによ」
スーツの宣伝に変わった。親父は手を見つめ、さっき殴った敏夫の、殴った後のあの歓喜に満ちた顔を思い出した。
「さっきのあいつは本当に困った奴だったな。殴られてありがとうございましたなんて阿呆だな、正真正銘の。俺は人のこと思って殴るほど人間ができてねえっつうのに。注意した事をその場で復唱しちまうし。そんなことしてたらいつまでたっても変わらないって。受け入れる事実に綺麗な色をつけちゃあいかん。なあ」
猫を抱き寄せひざに抱えると、お皿に酒を注いだ。
「お前はいい酒しか飲まねえんだな。現金な奴だ。誰に似ちまったのかねえ。高いんだぞ、これ。感謝しろよ」
(了)
参考図書:拙書 短編小説集「現実錯誤」より