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【読書録132】致知2024年7月号「師資相承」感想

 致知の感想をnoteに書いて、今回が34回目となる。
忙しさにかまけてしばらく空けてしまった。良き習慣なので続けていきたい。



総リード 師資相承

「師資相承」、はじめて聞く言葉であるが、師から弟子へと道を次代に伝えて行くことであるという。
 私自身、師といえる人は何人かいるが、あまり深い付き合いをしているとはいえず総リードの逸話がしっくりとは来ない面があった。
 
 その中で、最後に出てくる森信三先生の言葉は、響くものがある。

 「人間は一生のうち逢うべき人には必ず逢える。しかも一瞬早すぎず、一瞬遅すぎない時に」
 これは有名な言葉だが、そのあとに続く言葉も胸に響く。
「縁は求めざるには生ぜず。内に求める心なくんば、たとえその人の面前にありとも、ついに縁を生ずるに到らずと知るべし」


「求める心」ありや否や。師資相承が成立する肝心要はここにあることを肝に銘じたい。

これを読んで、私は、あまり人を求めていなかった、もっと言えば、心の底から希求するものがなかったのではないかという思いになった。
「求める心」これは、人との縁だけではなく、人生において様々な場面で必要になってくるのではないか、私自身のあり方に反省させられた。

孔子とその弟子たちの物語

 JFEホールディングス名誉顧問の數土文夫氏と中国古典研究者の宇野茂彦氏の対談記事である。論語を師資相承の物語と捉えるのは面白い。確かに、論語の中の、孔子と弟子の問答は、師資相承といえる。

 孔子が同じ問いに対して受け取る相手に応じて、答え方を変えながら彼の教えを伝えるというのは、現在においても大切にしたい考え方である。
 また「仁」という言葉が何度も出てくるのは、「仁」という言葉がよくわからなかったということと、孔子自身が「仁」という言葉を自分の中でブラッシュアップしていったという指摘は興味深かった。

 數土氏は、実人生の中で支えにしてきた論語の言葉として、百くらいあるが特にと前置きして、「克己復礼」(己に克ちて礼に復るを仁と為す)を挙げてこう言う。

人生には失敗がつきものであり、そこから立ち直らせてくれるのは他人ではない、自分自身だということ。そして、立ち直らなければ周りにも迷惑をかけてしまい、それはつまり礼を失することになる。だからたとえ困難に直面しても、周りの人々に敬意を表して生きるために立ち直らなければならない

  なかなかこの境地に到れるものではないが、自分のあり方次第で周りに悪い影響を与えてしまうというのは心に刻んでおかねばならない考え方である。

また數土氏は、こうも言う。

人は誰しも成長したいと思っているわけですよ。それは善人も悪人も例外ではありません。そして「論語」は「修己治人」、己を修めて初めて他人を治めることができると。だから学びなさいと説いているわけです。
 いまは人生百年時代といわれていますが、人生が長くなればなるほど、そういう指針となるものを失ったら、自分が何のために生きるべきかが分からなくなってしまう。

 この考えも非常に共感する。

現在、大学院に通っているが、大学院での学びも自分で選んだことであるが、忙しくなってくると自分を修めるというのが一番のカギになってくると思っている。
 なぜ自分は学ぶのか。それを常に自分自身に問い掛けたい。

宇野先生は、孔子の「一以て之を貫く」の一とは何かについて、「学ぶ」ことだと言っている。

孔子が一生を懸けて貫いた「学ぶ」という姿勢を体現した時、私たちは孔子の允可を受けることができるのではないかと思うんです。

それを受けての數土氏の言葉も良い。

年を取っても決して遅くはない。命ある限り学び続けることが大事だと受け止めることもできますね。
自分が意識しさえすれば、周りにいくらでも優れた人はいる。そのくらい謙虚でいるべきだと私は思います。たとえいまの世の中にいなくても、古典の中には数えきれないほどいます。ですから師資相承で一番大切なことは、「温故知新」です。古典を読み、歴史を学んで現実の諸問題に対処していくこと。そういう姿勢を貫くことによって、この大転換期に道を開くことができると私は思います。

 古典を読み、歴史を学ぶのは現実の諸問題に対処するため。自分の行動の質を高めるために学び続ける。とても大切にしたい考え方である。

紛れもない私を生き切れ

 本号の表紙にもなっている、行徳哲男氏と松岡修造氏の師弟対談記事。

行徳氏のことは、存じ上げなかったが、記事によると、米国の行動科学と感受性訓練を東洋の禅と融合し、「感性=紛れもない私」を取り戻す研修を創始した人物とのこと。
92歳になっても迫力のある発言を繰り返す姿、そしてその発言内容には惹きこまれる。さすがに松岡氏が師と仰ぐだけのことはある。

とりわけ、感性の力についての考え方が良い。

ただの物知り、知に偏るんじゃなくて、学んだことを自ら実行し、体験として感じ取ることで、知識は真知の光となる。
 
森信三先生から教えていただいた「論語」の言葉に、「行いて余力あれば則ち以て文を学べ」と。まずやってみなきゃ。そして余った力があったら勉強する。
我われ現代人は文を学んで行動しない。学べば学ぶほど行動することが足枷になる。いつも考えてばかりいるから。すべてを解決するのは行動。もう行動ありきだ。嫌なことも行動が吸収してくれる。

学べば学ぶほどに行動することが足枷になるというのは、身につまされる。まずは動いてみる。これは大事だ。

92歳になる行徳氏は、松岡氏の「先生はこれだけたくさんの事を学ばれてきて、迷ったり振り回されたりすることはなかったんですか?」という問いに対してこう答える。

いや、迷いだらけ。迷いがあるというのは生きていることの証明だから。森信三先生の教えに人間悟れるわけがない、悟ったと思った途端に迷いに落ちる、迷いだらけの身だと思うことが本当の悟りだと。

 この迷いというのを受容すること、またその迷いの中で、行動を起こして行くこと。とても生きていく中では重要だと思う。

感性というのは受容すること。一方、思考や思索というのは「はてな」「ほんまかいな」「そうは言ったって」という拒否機能が働く。我われの仲間が円覚寺の横田南嶺管長に「禅とは何ですか」と質問したら、「ようこその哲学です」って。これこそまさに感性だよ。

すべてを受け容れる。それこそ禅の精神なのか。

感性とは受容機能であり、しかも感性の決定的な強みは、変化への圧倒的な対応力。

総てを受け容れる心。

横田南嶺管長の般若心経の本の中で、薬師寺の高田好胤氏が、般若心経について語ったという言葉を思い出した。

「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろく、ひろく、もっとひろく、これが般若心経、空の心なり」

「弱さ以上の強さはない」という言葉が他の場面で出てくるが、総てを受け容れるというのは、弱さではなく、強さだと思う。

人間が強くなるのは弱さを知った時だけ。強がっている人間、粋がっている人間というのは弱さの裏返しだから。現代人は気負いだらけです。気負いっていうのは字の如く気に負けている状態を指す。だから弱みを知ることが大事や

感性を磨き、しなやかな強さを身に着けたい。

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