応答のよしあしと、迷いから生まれる人間の発達
最近は、応答することについて考える。応答しえなかった、あのときのこと。それでも、そのときにはきっとそのときなりの応答をしている。ある状況に「動けなかった」ことも「動けないという応答」であるし、「沈黙という応答」もあるだろう。
その咄嗟の応答が、自分があのときどうしたらよかったのだろう、という逡巡の手がかりになって、その逡巡や葛藤こそが自分自身の倫理的な主体化生成の糧となる。わたし、という存在は永遠に作られ続けて、変わり続けて、ここが到達地点といったものはない。倫理的な主体化ってのは、動的ななかで永遠にかたちづくられる未完のプロジェクトなのかもしれない。
どうすればいいのか分からない事態に適切にふるまえるようになること。それが倫理的な主体だと、教育哲学者の方は語った。ケアにおいては、ケアの対象にとってどうだったか、という想像力も問われる。しかし、究極的にはそれ事後的にしか分からないはずだ。または贈与においては、キャッチボール的コミュニケーションのように決められた相手とのなかで、贈与ー返礼がセットになっているわけではない。投擲的にもっと誰が拾うのかもわからないコミュニケーション。それは海に手紙をいれたボトルを流すかのような不確実さをともなう。
なんで贈与の話がでてきたのか、わからないが、そのまま消さずに残しておこう。ぼくがいま書いてみたいことは、そんな祈りのような投げかけではない。どちらかといえば、相手がいたり、相手が目の前にいなくても自身の経験を超えた状況に身を浸しているときの応答の可能性だ。
倫理的な主体は、道徳的な主体とはことなる。道徳的、とはある種の規範がすでに見出されている。ある一定の合意がとれた、ある種のべき論とも言えるものだろうか。コロナ禍では「感染しないように、ディスタンスを取る」といったような新たな道徳なるものが生まれた。しかし、これは道徳に見せかけたまやかしで、床に臥して先が長くない家族が病院にいるのに親族がそばについていられない、という状況はどうなのだろうか。医者からすれば、それが規範的なルールがトップから敷かれているから、無理ですと答える。これが道徳的だとしたら、そんな道徳は必要ないかもしれない。倫理的、というのはその状況で逡巡することだ。
医者からしたら、他の患者や病院内に蔓延するリスク(コロナウイルスの危険性がまだ未知だった際にはとくに)に直面しつつも、死を間近にしたひと・その親族の想いに触れる。いろんなものに触れ、さまざまなとりまく関係のあいだで引き裂かれるような経験をする。そんなときどうするのか。誰かひとりにとって完璧な応答はない。矛盾はたくさんそのうちに存在する。
どんな応答をしたとして、うまく応答しえなかった後悔が残るかもしれない。それが楔のようにのこりつづけることは、迷いつづけ苦しいけど、そこにしかない学習が生まれるはずである。では、これとありのままの応答、つまり相手にとってよい、こうありたいという自分にとってよいetcは矛盾するのだろうか。
たとえば、親しいひとの死をなげく人に対して、どんな声をかけるのか。声をかけず抱きしめるのか。話をできるようにするのか。いろんな可能性に満ちている。もし子どもが迷わずその人を抱きしめにいくとする。その咄嗟の応答は、その子どもが逡巡しないでふいに行った応答である。それはその子どもの全人格をもって果たされるその状況における責任の負い方ともいえる。しかし、ぼくはそこで抱きしめればいいのか、迷うだろう。迷ったうえで抱きしめる。そのあとで後悔とまではいかないが、あれでよかったのか?と悩む。その応答に正解不正解はない。しかし、あとで迷いは生じる。
または声をかけるのか、抱きしめるのか、話をきくのか、もっともっといろんな可能性だってある。音楽をかける、とかだってそうだ。どこか外に連れて行くことだってあるかもしれない。そんな無数の可能性がある。その可能性の拡がりは、どう捉えればいいのだろう。可能性がふえればふえるほど、よいのだろうか。それによって、生まれる応答の複数性がある。応答しえる状況がふえうる。そんなこともある。でも、3の選択肢から選び取ったまたは無意識でうまれた一つの応答は、100の選択肢/可能性から選び取ったまたは無意識でうまれた応答より劣る訳では決してないだろう。