反逆のあらわれとして行為の崇高さに宿る狂気
guca owl というラッパーのDifficultという曲に、
「とっておきの暴言の為に、真面目な本を読んだりするんだ この世界が真っ直ぐなら俺も真っ直ぐにやるよ」と、こんな一節がある。
この世界はまっすぐじゃない、ということだ。だから捻くれ、はみだし、抵抗しないと、世界にすでに存在する歪な型に当て込められてしまう。
ものすごい小説や芸術作品にふれたとき、そこから「狂気を感じるなあ」といった”かんじ”が浮かんでくることがある。
例えば、作家の村田沙耶香さんがとても好きなのだけど、なぜ好きなのかを端的にいえば、狂っているから惹かれている。なにに狂っていると思うと、まず一般常識的にみた時に狂ったキャラクターが出てくることが多い。たとえば短編「素晴らしい食卓」では、魔界都市ドゥンディラスで戦う能力者という設定で生きる妹が出てくる。その妹が結婚する相手とその親にドゥンディラスの料理をふるまわねばならない状況になる。そこで、謎の食べ物ばかりを提供すると当然、彼氏の親は困惑する。だけど、その彼氏もフライドポテトとお菓子しか食べない偏食家である。そして妹の姉は、完全栄養食にどハマりしている旦那と暮らしている。
それぞれの食のこだわりや食文化自体が、他のこだわりからみるといかにあり得ないものなのか、といったグロテスクな側面が魔界都市ドゥンディラスが挟み込まれることで、浮かび上がる。
狂気や狂っている、という言葉じりからは、一般的にはおかしなものだと忌避される傾向にある。それでも、ぼく自身は狂気的でありたいという欲望ももっている。というか、この世界でまっとうに生きるためには、狂気的でなくては生きられない、という切実さを感じている。
たとえば、狂気的な生き方といって思い浮かぶのは、江戸時代の遊行僧・円空さんだ。彼は生涯12万体の仏像を彫ったとされるが、それはまちがいなくある種の狂気ではないか。取り憑かれたように、一心不乱に彫っていたのだと思う。
アウトサイダー・キュレーターの櫛野展正は全国でさまざまな芸術活動を展開している姿勢の老人たちを紹介している。中には、35年以上、朝4時から9時まで日曜日と正月以外は休まず、ショッピングセンターの清掃員を行い、その傍ら愛着を抱いた掃除等具を題材に、雑巾の絵を毎日描き470枚を超える制作をおこなったガタロさんという方。
または群馬県邑楽郡板倉町の中央公民館には、20,000匹以上のコガネムシなどの死骸で制作した180cmを超える千手観音像が飾られる。これは、近隣に住む稲村米治さんが5年かけて子どもの昆虫標本制作を手伝う目的だったところからはじまり、標本作りに没頭していった。虫を供養するつもりで観音像をつくったという。
こうした狂気は作品をつくることのみには当然依らない。水俣病事件に向き合ってきた漁師たちや漁村などの海辺の人々は、水銀で汚染された海だと分かっていても、暮らしのそばにある海で魚をとって食べたという。環境文学研究者の結城正美は、「貧しくて仕方がなかったからというよりも、かれらと海との関係が水銀汚染によって断ち切られる程度のものではなかったから」ではないか、と読み解いている。一般的な感覚からすれば、汚染されて自身の身が危険であれば食べることをやめてしまう。だからこそ、貧しいわけではなく、海辺のひとびとが海や魚と切り離せない関係を保ち続けるためだけに、汚染された魚を食べるという行為のすさまじさを感じる。
これらの作品やその姿勢には、やはり狂気が宿っているとじぶんには受け止められる。なにに狂気性を感じるのかといえば、専心であり没頭であり信仰であり、その行為そのものへの崇高さともいえるものだ。それは社会的な価値や生産性のかけらもなく、ただそれをやるだけ。ただそれをやることを、めちゃくちゃにやる。そこにそうは生きられていないじぶんは狂気を見出しているのだとおもう。
そして、あらゆる活動が社会的な意味や生産性に回収されてしまう今、「ただそれをやる」といったその崇高さを保つにはやはり狂わねばならない。人生におけるあそびの重要性は、さまざまな場で説かれるが、あそびの究極的な本質は思うがままにふるまう、この自由さだ。
吉田おさみという人物は、精神医療において狂気と正気というふたつの世界構造のなかで、正気 > 狂気 という考えに則って、正気の世界につれもどす復帰に違和をとなえた。心を病んだひとびとは狂気じみた精神異常者という扱いをされてきたわけだ。しかし吉田は、狂気とは、健常者を中心とした社会における抑圧に対して、自己解放のための抵抗運動だという意味づけをほどこした。
つまり、狂気とは一般的には正気という「当たり前であり、よい世界」からはみ出てしまった状態を指している。ただ、実際には狂気は、叛逆のかたちであり、自己を決められた檻に押し込めることへの抵抗である。じぶんのこころや身体をじぶんのものにしておくための抵抗こそが、狂気である。
じぶんの目に狂気だ、と映る行為には、信仰世界がかかわる気がしている。その世界が、その人にとって切実なものである、という。
12万体の仏像を彫った円空さん、汚染された魚をたべた海辺の民、20000匹の虫の死骸で観音像をつくった老人…といった生き様に、他に理由もなくただ大切であり、やらざるを得ないという状況において行為の崇高さを感じられる。その「狂気」は「正気を装いながらも実は最も狂っている社会」に反逆して、生きる術としての狂気なのだとおもう。