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連鎖からの逸脱の先、複数の世界の行き来

殺し合いの連鎖から、どう抜け出せるか。バガボンドの武蔵は、天下無双を目指し、その強い「我」に執着していた。そこから自由自在に刀をふるえるようになる感覚を取り戻していく様は、ぐっとくるものがある。

少し前まで、殺し合いという言葉は、身近ではなかったのに、ここ数年の戦争の勃発により急にリアリティを帯びるようになった。言葉の輪郭ってこうも変わるんだな、と思う。その輪郭がくっきりすることはときに、否応もなくやってくる。

さて、殺し合いの連鎖にはとはいえ、直接的には遠い事象でもある。一方、会社をやっていると多かれ少なかれ、無限”連鎖”にのっている、または、のせられている感覚は拭えない。それはビジネスや仕事において、名声を帯びていく、実績を蓄積していく。それを無我でやるのはかなりの行が必要ではないか。

たとえば、ぼくの場合は会社をつくって3年半になる。最初は「え、宗教?」とか言われてへこんだり、「これ、どんな顧客価値があるの?」とフィードバックを受けたりして、いやいや、そういうことじゃないんだよ。と思ったりした。で、案の定、仕事をつくるにはまあまあ苦しかった。
とはいえ、3年半たち、徐々に名のある会社ともやり取りが増えたり、上向いてきた感覚はある。そして、大きい仕事がつくれると、やっぱりそれなりにうれしいし、名のある会社との商談もしかりだ。よくこれで食べていけるね、と言われる会社であるが、なんとか順調っちゃ順調なのはありがたい限りだ。

ただ、その反面、ぼくはこれでいいのだろうか、という感覚も拭えない。会社としては順調なのでよい。やりたいことも多い。ただ、ときおり真逆のことを考える。真逆とは、全部捨ててまっさらにすることだ。「おりる思想」や「怠惰の美徳」や「働かないでたらふく食べたい」なんて本をよく手に取るし、一遍上人の”捨ててこそ”な哲学に惹かれてしまう。

これは、これまで積み上げてきたものを捨てる快楽を得たいとか、今の状況が苦しいから解放されたいとかってわけでもない。ただ、会社を建てる前にもっていた感覚や理想的な生が、まっとうできているまでの実感もない。それは、結局、いちど降りたのだけど、またのぼっている感覚に尽きるのかもしれない。

ケアと仏教思想やエコロジーといったテーマは、既存の資本主義経済の外部にある価値でありながら、法人を運営するとは結局、それを経済に接続させようとしているわけで、のぼらざるを得ない部分はある。というか、逃れられない。しかし、ぼくの大切にしたいスタンスとして、隠居する的なスタンスはとっても微妙である。特権的な人間による、一人勝ち逃げやん、と思う。だから、それをしたいとは思わない。

じゃあそうしたときに、問題は結局のところ自分のなかに複数の論理でうごく世界を等価として持てているのか?になるのだと感じている。
ある世界から完全におりて、別の世界を歩むってだけではない。複数の世界・コミュニティ・ゲームを行き来する。ここだけみると、いろんなコミュニティに属することが大事だね、というよくあるコミュニティ論に回収されてしまうかもしれないけど。

難しいなと思うのは、おそらくビジネスの世界において、ほんとはそうでもないんだけどサバイブしなきゃのプレッシャーを内面化しすぎてしまい、これ以上は働かなくてもよくない?という歯止めが聞きづらくなってしまうこと。この不安は雇用されている身と、経営側の大きな差異に感じる。以前つとめていた5人の会社では、そんなこと思ったことはなかった。ただ雇用されている身だったからだ。

そして、それによって複数ある別の活動・世界が、支配されてしまうこと。時間的な支配・マインドシェア的な支配・結果としてエネルギーが切れてしまう支配。たんに自分の甘さもあるから、そこはある程度マッチョにやるしかない気もしている。そう、甘さといったがこれは、一つのわかりやすい世界に逃げ込んでいて、他の世界の享受の仕方に慣れるまでの大変さから目をそらしている…とも捉えられる。

とにもかくにも、なんだか今年の自分はけっこういっぱいいっぱいだったなと思ったし、大切なことがさらさら流れてしまっている。そういえば、RedbullのRASENで、田我流のリリックに「年始からギリギリ この螺旋うちはイタチのイザナミ 抜け出せん」とあった。うちはの術で、現実を受け入れるときに幻術の無限ループから解放される術だ。ふと思い出した。こころに留め直す。

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Masafumi Kawachi
Twitter:より断片的に思索をお届けしています。 👉https://twitter.com/Mrt0522 デザイン関連の執筆・仕事依頼があれば上記より承ります。