どうしようもなさの引き受け、今の連続
「自分のちからでのどうしようもなさ」についてこのまえ書いていたんだけど、これはあらゆるところに出てくる問題意識。
台湾人のパートナーは、緊迫感もたかまる台湾有事にかんしてものすごい不安だという話をしていた。ロシアとウクライナの様子を見ていると、そのリアリティが増していることも理解できる。だから日本にいざというとき親族が避難できる家を用意しておきたい、といった話もしていた。
または、子どもを産みたいね、と話しているけれどまだ産んでもいないし、不妊の可能性もあるなかで産めるかもわからない。だけど、子どもが生まれたあとのお金の不安もよぎってしまう。
まだ起きていないし、起こるかもわからない。そしてそれが実際に起きないようにする/起きるようにする、といったコントロールは決してできない。じぶんのちからをあまりにも超えている。
環境問題・サスティナビリティ・貧困..ぜんぶそうだと思う。一人一人がプラスチックを使わないように、という意識が大事じゃないとは決して言わないけれど、それで環境問題が解決されるわけでは当然ないし。解決されるなんて人間が活動を続けていく上で、あり得ない気もするし。
地球規模の問題で、だれも全貌をはあくできないようなハイパーオブジェクトなのだ。でも、それって会社をやっていて、一緒にやっているメンバーやパートナーに対して「もっとこうなってほしい」とか抱くレベルの話もおなじで、自分を超えている。あいてを変えるなんてできないし、じぶんが変わるしかできない。
こうやってだらーっとモノを書いているのも、ガンジーがいったように世界を変えるためではなく、自分が変わらないようにするためであること、それを再三おもいだしたい。自分にできることなんてたかが知れてるんだから。
それでも、自分を超えたところにある不安は付き纏ってくる。自分にはどうしようもないな、と認めて手放すっちゃ手放す。でも、脳裏にはよぎる。これはリスクの問題?どのくらいの確率で起こるのか、全くわからない。または自分を超えすぎているからこその不安?
こうやって、未来の不安が顔を覗かせるとつらくなる。ここ最近、メンタルの調子が悪くなってしまったのもこうした部分が影響している気がする。
福祉施設や支援施設のことを調べていたときに、有名なしょうぶ学園やムジナの庭について書かれている記事で、それぞれ以下のようなことが語られていた。
社会や家庭で苦しい思いをしてきた人が、安心して休息できる場所があまりにも少ないし、人は未来や過去のことを考えてしまうから不安になるんです。私が思い描いていたのは、とにかく思考をストップさせて現在に集中できる場所。生活することそのものが心のケアになる場を作りたかったんです https://slowinternet.jp/article/mononome1_06/
彼らの関心は過去や未来ではなく、今にしかないんじゃないでしょうか。今を継続しているんです。よく「継続力がありますね」と言われるんですけれど、根気とも違う。今やってることを明日もする、明後日もする。今の連続をしているということだと思います https://magazine.air-u.kyoto-art.ac.jp/feature/61/9/
ハッとさせられたのは、過去や未来のことを考えてしまうから不安になること、そしてだからこそ思考を止めて今に集中する。今やっている連続を生きること。よくいわれるマインドフルネス。でもそんなことばに回収したくないような、たくましさ。
これを書いているときは、流れている。でも、流れ続けているわけにはいかない。仕事をしているときもどうしようか、と考えたりする。または新しくひとと会うときに、仕事の種をまこうと思ったりもしちゃう。それをあと数十年繰り返すのか?とか思ったときに、急に怖くなったし意味が剥がれていく感覚があった。明日も朝起きてまた日が過ぎて、と繰り返すのか、と。
それは自分がこのままではしっくりきていないんだな、と気づけた瞬間でもある。同時に、不安が押し寄せてきて、動けなくなる。でも、こうやって手を動かしていまだよ、いま!って感じになると、少しだけ楽になれる。少しだけ楽になれると、朝おきてまた1日がはじまっちゃうのか、ではなくて、なんかこの部屋に差す光が尊いな、とか、周りに目がむき始める。
今に生きるって、とはいえ難しい。流れ続けていたら人が人でなくなる気もするんだけど、そんな時間の過ごし方をもうすこし増やしていけるといいんだなと思った。