創造性の評価をどう取り扱えばいいのか?
個人的には何でもかんでも評価をすることが必要だとは思わないのです。評価経済なんて言葉ぼくはなんか気持ち悪く感じてしまう。ではここでさて、タイトルどおりの問い、クリエイティビティの評価はどう取り扱えばいいのか?しかし、そもそも創造性の評価はなされるべきなのだろうか?(⚠同評価すればよいかの結論はございませんすみません...)
クリエイティビティ・創造性、これらは不確実で変化の激しい時代に叫ばれ続けております。先日、アドビが発表した「新卒採用で企業が重視するスキルについて」においても、多くの企業が重視するという回答をしています。このリサーチにおいて、創造性とは何か?が問われていないので、どのような意味合いでこのデータが出てきたのかは図りかねますが。
そもそも創造性とは何でしょうか?創造的であるとは?
既存の概念に関連性を見出して、これまでにない組み合わせを生み出していくこと事態が創造行為という認識が一般的でしょうか。
創造性についての研究をしているSFCの井庭教授は、創造システムという概念を提唱しています。そして「創造的であるとは、発見=ちいさな気づきの連鎖」が起こること、とおっしゃってます。発見は、アイデアと創造対象への関連付けが見出されるときに創発するのだと。つまり、これは活かせるぞ!というアイデアの発見を重ねられる状態が創造的である。ということです。これに当てはめれば、外的世界と内的世界の交差により課題意識が発ち起こり問題を発見することから、それを解決するためのカタチを発見することもそう。レゴで遊んでいてこれとこれを組み合わせたらこういう表現ができるのでは!?っていうのもそう。これを創造性の定義として拝借いたしましょう。
メディアによる創造という概念の扱い、暗黙の前提
これまた多種多様な意見がでてくると思います。多くの文脈では独自性のある新しいものを生み出していくこと、のような意味合いが多いですかね。でも、昨今のメディアで目にする創造性はその暗黙の前提があるような気がしてなりません。それは市場に評価されてはじめて"創造"に昇華されるということです。つまり、市場に評価されないクリエイションを行うことは創造行為とみなされないという意味を孕んでいるのではないかと。
このサイトにあらゆる著名な方たちによる創造の定義が掲載されています。これを分解して抽出すると
人が問題を異質な情報群を組み合わせて統合的に解決し、社会あるいは個人レベルで新しい価値を生むこと
となります。ここで注目すべきはそのゴールである「新しい価値を生む」ということ及び、そのスコープとなる「社会あるいは個人レベルで」という箇所ですね。先程のぼくの指摘はここに繋がるのですが、多くのメディアや冒頭で述べた人事企業が求める創造性とは、社会に対しての新しい価値、もっと下卑た解釈にすると「その会社にとって新しい方法で価値=利益を生み出す行為」まで言えてしまうような感覚を受けてしまいます。というのが昨今の創造という言葉の前提にあるような気がしており、ここが本文の論点ともなります。
さてさて、ここまできてようやく本題の提起なのですが、人は創造性を評価されるべきなのでしょうか?ぼくは自分なりの答えをまだ持ち合わせていませんが、いくつかの視点は提供できたらいいなあと思います。
子供は創造的とはよく言われる
これはまさに評価体系が及ぼす悪影響の最たるもの。子供は自分なりに周囲の道具や環境を利用して、瞬間的に遊びを創発します。それはその場における創造行為です。先の定義に照らし合わせると、この遊びとは「個人レベルの新しい価値を生むこと」に相当します。それは「遊びを通じて個人の内的世界を広げる、ないしは世界を理解する」ということです。何もない原っぱと土だけの広場にいたとします。ある子は雲をなにかに見立てた遊びをし始めます。<雲 >を<抽象表現>と関連付けて<クイズ>という遊びを創発します。または、<木の棒>と<地面>を関連付け、<筆>と<キャンバス>に見立てることで、<お絵かき>をし始めます。
こうした何気ない行為に、創造性が見出されます。これとこれを使えば、こんなことが出来るんだ!という発見をなし、自身と世界を深めていきます。しかし、この過程から生み出されたアウトプットは評価されるべきなのでしょうか?
子供はその輝きを失っていく
比較し、優劣がつけられた時点で、個人レベルの創造性の否定と捉えられるでしょう。つまり創造性を発揮した結果、特定のモノサシや損得に沿ってうまれた創造物が評価されてしまう。評価されなかったものは、創造的ではないという認識を個々人が教育過程の中で自然と身につけてしまっているのが現状ではないでしょうか。
本来は全ての創造が必ずしも社会的評価と完全相関するものではないはずなのに、結果として社会に受け入れられているだけであるのに、そうした個人レベルの創造性は排除されていきます。日本人はクリエイティブ・コンフィデンスが著しく低いということがわかっていますが、当然の結果なんじゃないか。社会的評価のモノサシを自己評価のモノサシとして内面化してしまっているわけですから。
そして評価されない子どもたちは自信を失うと共に、その評価基準を満たそうという意識が育まれていくのではないかと。つまり社会に認められるものを最初から狙いにいくわけです。そうしたときに資本の枠組み絡み取られる可能性が高くなってしまい、結果としてマーケットへの迎合する姿勢が生み出されてしまいそう。
では、評価は必要ないのか?
と言われると、そうとも思わないわけです。評価とはそもそもどういう意味において必要とされるのか、それは特定の何かを育んでいくためだと思うのです。組織においての評価制度だって、組織ごとに色んな思想で設計されていると思うのです。OKRは事業の進捗を育む方向性の評価制度と捉えられるし、組織のカルチャーを育みたいなら文化コードを細分化した行動レベルでの評価をするかもしれません。何かをポジティブな方向で育むために評価が必要なわけです。
じゃあ創造性に対しての評価は?というとその創造性を育むための何かは必要だと思うのです。が、先の社会的評価をモノサシにした場合の弊害はやはりあると思うのです。
となったときに、どのような軸を評価すればいいんだろうか。そして特に教育課程において、"誰"が評価するべきなのだろうか。うーん、結局ぜんぜん答えにはたどり着けない。評価じゃなくて、認めるという方向性で考えたほうがよいのか?あれ、そもそも統一的な創造性の評価軸なんてないのか?というか創造性につながるとてもしりすぼみな文章になってしまったが完全に手が止まってしまった。
個人レベルの価値を評価すればいい?
整理すると個人レベルないし社会レベルの価値を生むために発見を重ね続けられる特性が創造性であり、社会レベルの価値に対して社会的評価を充ててしまうと逆効果になりかねない。
ということは、個人レベルの価値を評価する方法を考えないと行けないのではないか?という仮説が導かれるのでしょうか。
以前の記事にて好き=数寄に囲まれて評価の価値観にさらされることが文化の醸成に繋がっていくということが、クラブやサークルでは行われることを述べました。それは個人の数寄が出発点となります。
そこから洞察するに、創造性にアクセスがより出来る状態に至る、今向き合っている創造につながる発見を重ね続けるためには、評価の価値観を共有した対話が必要になるのではないかと思います。創造性を一層と育むための工程としてそれが必要な気がしています。じゃあクラブでは志向性と嗜好性の共有可能な人々が集まるから良いものの、教育課程においてはその評価の価値観をどうするか?というのはまだ疑問。でもここにヒントはある気がしています。