ありのままに流れることと、座標軸。

ありのままでいるとは難しい。僕たちは常に「かくありたい」といったような虚像だったり、自分の外側にあるような到達点や理想像を抱いてしまう。
それは悪いわけではない。それも生成変化のひとつの刺激。結局ひとは、ながれるように生きていくしかない。何をしてても、変わらずにはいられない。

ありのまま、ということばだって、変わらないなにかがあるのではない。「これが自分のありのままである」といった何かしら自分なりの軸やルールをきちんと持って、抱きつづけるのはありのままではない気がする。それに縛られてしまうからだ。
この固定化がよくないのか。しかし、固定化まではいかなくとも自覚化することで新しい可能性がひらけていくことだってある。思い込みや枠組みといった先んじて立つものがなく、ただ目の前に起こっていること、生じたことを価値判断なしにそのまま流していくことだ。

つまり、ありのままとは流れること。流れていけば勝手に変わっていく。「ありのままでいよう」と、自分はかくある、が先に立つと、何かを聞いたり見たり人と話したり状況にぶちあったときにその「かくあろう自分」に応答しようとしてしまう。

その結果、一瞬「ためらったなあ」とか「嫌気がさしたなあ」といった感情こそがありのまま浮かんだものかもしれないのに、それを覆い隠してしまう。または、その感情と「かくありたい自分」が渋滞して身動きがとれなくなってしまう。
小さな子どもたちは常にその状況に素直に応答している。自分はこうしたい!以前に怒ったり泣いたり、感じたままにそれが表にでてくる。それがいつのまにか、できなくなる。

この流れにのることと、自分の軸をもつことはレイヤーがありそうだがおそらく両立しうる。ひとつには自分の軸を自覚するけれど、その瞬間にその流れや状況にはゼロになっていけるような脱力的な身体。もうひとつには自覚すらしていないけど、流れに乗ればそこにおのずと自分の軸をもった応答が生まれるのではないかということ。

つねに流れに乗るだけだとどうなるか。今の社会には完全に適応できないだろう。社会化はやっぱり必要だと感じる。お金も体裁も面目も社会の常識もぜんぶ捨ててやれ!では、立ち行かないことも多かろうと思う。どんな世捨て人でも、ある程度の社会化はしているのではないか。
でも、流れにのれなくなるとそれは虚像だけになってしまって、しんどい。自分の軸をもちつつ、それでは答えられない状況に屈して逡巡しつづけることもまた一つの学習であって豊かだと思う。その軸を何度も壊したり、瞬間瞬間で捨てたりすることのバランス。それを深めたい。

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Masafumi Kawachi
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