カリスマ
わたしは、わたしなりの「保守思想」を実践しているつもりでいる。だから、こんなことを書いてしまうと、さまざまな方面から誤解に基づく批難が殺到する危険性・リスクがあるよなー、と、それなりの想像力・妄想力・大人の思考から予測する。するんだけど、あえて書く。別に騒ぎを起こす意図はない、と先に書いておきます。
安倍晋三氏はカリスマだった。
そして「独裁者」になれる素養があった。
……もちろん「独裁者」なんぞにはならなかった。……今も生きてあり続けたら、いずれ「独裁者」になっていたかもしれないし、ご本人の思考と気質から「独裁者」に祭り上げられる諸条件を巧みに回避して、いち国会議員、いち政治家をまっとうして命尽きていた、そんな未来もあったかもしれない。
「ひとたらし」なんて表現もある。
安倍晋三氏は、相手と打ち解ける性質を持っていた。野田佳彦氏が演説していたが、野田氏が総理大臣、安倍氏が野党・自由民主党として質問をぶつけ、野田氏が迂闊にも自滅な発言をしてしまった、あの場面にしたって安倍晋三氏の「ひとあたりのよさ」がアシストしていたのではなかっただろうか。
独裁者といえば、なにか、いまどきだとロシア・プーチン氏って感じだろうか。
ヨーロッパ近代史としてはドイツ帝国・ヒットラー氏だろうか。
権力!意志!強引!暴力!ってイメージなんだろうけど、それは違う。
「絶対王権」みたいな言葉だって近代以降の、ある王様の創作だ。古代ローマ帝国とやらの初期は市民の合議制であった、というのは世界史を(いやいやながら)聞いた人にも覚えがあるだろう。面倒、厄介ごとを「丸投げ」して誰かに委ねる、というところにのみ「独裁」は生じる。それがサスティナブル……いや、継続するかどうかは状況による。独裁者の人柄にもよる。
保守を自認するわたしから薄目で眺めると、反保守とわたしがレッテルを貼る方々が、なぜどうしてあれほど安倍晋三氏をくさし、貶めるようにガンバり、国葬儀にさえ無意味な空騒ぎを「せざるを得なかった」のか、半年ほどの時を経て思い当たるのは、安倍晋三氏による独裁の可能性を本能として忌諱した、それだけだったのではないか、という気がしてくる。反保守の方々には担ぎ上げたい独裁者、全体主義独裁者がそれぞれの派閥においてあったのだ、と考えると、あれほど苛烈な反応に一定の筋道、道理で理解出来ないこともないな、と思えてくる。
安倍晋三氏の「性質」に対するわたしの分析は、つまるところさまざまな考え、さまざまな趣味趣向の人間を「糾合する」よすがとして、政治家・安倍晋三氏が「存在した・実在した」という過去形表記となって、わたし個人の感情を揺さぶる。
独裁者に「ならない」道を選んだ、ひとつの「カリスマ」安倍晋三氏。
平坦な道はない。安易な道はない。人ができることは、ただノートをとって学び、考え、決めて、生きていくこと、ただそれだけなのだ、と安倍晋三氏の死を我々は個々人の教訓と胸に刻んで励むより他はない、ということであるらしい。