ビタセン!

 こう書くとなんだか新商品っぽい訴求力があるなあ。いや、学園ものの新ドラマ?
 ……実際は「鐚銭」。なんだ、がっかり。
 上念司さんのあれこれ(箸の上げ下ろしまでは言ってない……つもり)文句をつけているのだけれど、あらためて「鐚銭」について考えさせらる契機をいただいたことについては、まあ(嫌々ながらも)感謝してます(不貞腐れたように横向きながら)。まあ、小芝居は、まあいいや。サンキュー上念さん(CV.若かりし日の堀内孝雄さん)。
 うろ覚え知識だけれど、日本でもチャイナからの銅銭が流入する以前にも、銅貨発行を試みたことがあったように記憶している。お買い物やら取引やらをすっかり塗り替えるような役割を果たすことなく、外来(まさに外来だ)の「洋もの」(海のアッチからくれば基本「洋もの」、それが隋だろうと唐だろうと、その後の後継権力だろうか)の銅銭が大量に入り込めば、作る手間なし、真ん中に穴あいてるし、物々交換するよりは何歩も便利!(ただし、それが通用するためには、「多く人が『銭』というものが『モノ』に相当する価値を有している「引き換え可能なモノ」という共通認識が揺籃され成熟し互いにその価値を共有していると「信じ合える」ことが、大前提でしょう。文献や遺物はそこまでの人の心の機微を明瞭に示すことがないので、「隙間」は空想なり推察なり妄想なりで埋めなければ話の辻褄が「量子化」されてガタンガタンとギャップのある、滑らかでない説明をせざるを得なくなるであろう。「であろう」とか書くと急に占術師っぽくなるな 苦笑)
 だから、鐚銭が元の銅銭よりも価値が低く扱われたというのは、単に「値切り交渉」の結果であって、ただそれだけのことだったんだろうなあって、私は思います。鐚銭での取引が成り立っていたんだから、正規の銅銭が減ったとしても「銭というあり方」の価値を取引関係者双方が共有していたということに変わりはなかったと思われる。ニセがねってことならそもそも取引は成り立っていなかったことだろう。
 鐚銭をググって(安易な調査手法だなあ)知ったのだけれど、琉球王国も銅銭を作っており今にそれが2種類だか3種類だか、残り伝わっているそうだ。日本本州界隈にある鐚銭は年月の腐食もあってみるからに「びたー」って様子だけれど、沖縄の遺構から出たらしい琉球の銭は、びたと呼ぶにはしっかりした作りであるように写真からは見える。……沖縄で、どうやって銅を得たのか、沖縄島で銅が産出したという記事もあるけれど実際に採掘銅山の遺構とか調べられているのだろうか、と気になっている。古いチャイナ産の銅銭を溶かしてあらたに作ったのだろうか。
 ヨーロッパ知識人が学問として成立させた経済学(ひとつひとつが経済学者学派単独の「見立て」に基づく雑多な「モデル」論の集積として、他の社会学、地理学など人文系学問と「同様な」あり方で今に残っている)のヨーロッパ実績に反して、日本ではたとえば江戸期にあふさか(大阪)で世界初の先物取引の仕組みが成り実際に稼働していた、という例がある。経済学史や経済史に一石を投ずるには私はあまりに浅学で、しかも大いに怠け者で勤勉に証拠を並べ、論理だった文章を丹念に書く気もさらさらない人間なので、「気になったこと」を書くに留めます。……どうぞあなたの手柄にして頂戴(手柄っていうほどの価値はないか。視点、視座、視角の提供だから、まあ「ヒント」みたいなものかな)。
 よろしく。 (な、なにを?苦笑)

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