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偉大な祖母の最期
こんばんは。
両親揃って、超が付くほどの働きマンだったので、幼少期から当たり前のようにおばぁちゃんに育てられ、昭和の英才教育を施されているコマリストです。
2025年1月3日。
私が最も尊敬する偉大な女性が、この世を去りました。
幼少期の大半をおばぁちゃんに育ててもらったことから、生粋のおばぁちゃん子という自覚を持っている私。
晩年は、左足に大きな怪我を負い、好きなところに行くことが出来なくなったことで、友人との交流も減り、趣味だった大正琴や編み物、刺し子などなどの創作作業も徐々に辞めてしまった。
それでも、私の家系の中では絶大な影響力を持ち、強い女性とはこんな人だという人物の代表のような存在でした。
おばぁちゃんの凄さを表すエピソードは沢山ありますが、その中でも最もインパクトがあるのは、35歳という若さでパートナーと死別し、女性1人で当時中学生だった私の父と5年生だったおばを育て上げたこと。
しかも、パートナーを失ってから、2人を育てただけでなく、老朽化していた自宅を解体して建て直し、そこから自分のパートナーを含む全ての先祖の50回忌を勤めあげた。
こんな人、ほとんどいないはず。
強すぎる信念を持ち、今の時代にはマッチしないであろう男尊女卑的な思考を貫いた。
私が洗濯物を干していたり、父が洗い物をしているのを見かけると「男がそんなことをするのは恥ずかしい。ご近所さんに見られたらどうするんだ!」と、本気で叱られたものです笑
そんなおばぁちゃんの最大の特徴は、超が付くほどのお節介と人たらし。
あまりにもお節介なので、私を含む親族から疎まれることすらあったわけですが、誰一人として嫌うということは無かった。
それもそのはずで、おばぁちゃんのお節介は、1点の曇りもなく心からの親切心から来ているから。
本人よりも本人の未来や現状を心配し、何か力になってあげたいと手を差し伸べる。
何度、要らないと言い続けても、「仕事大変だろうから」と、孫の私にお小遣いを渡してくれました。
#いい歳して
#お小遣いもらうのは気が引けるよね
そして、そんなおばぁちゃんの最期は、このお節介をやり遂げたと感じさせるものでした。
昨年の11月頃から何度となく、
”もうダメかもしれない”
と医師から言われてきたおばぁちゃん。
私を含め、家族の全員が終わりを覚悟しつつも、どこかで、おばぁちゃんなら乗り越えてくれるんじゃないかと淡い期待を持っていました。
実際、幾度となく山場を乗り越えて、元気な姿を見せてくれたので、このまま100歳くらいまで頑張ってくれるんじゃないかとすら感じていました。
ところが、12月27日に突然体調が悪化し、何度も呼吸停止を繰り返し、年は越せないだろうと言われる状態に。。
そんなおばぁちゃんに会いに行ったのが12月30日でした。
声をかけても返事はなく、時おり呼吸を止めてしまう弱った姿に、泣きそうになるのを堪えながら声をかけ続けました。
その日の帰り際、
「今日は帰るね!一緒に年越そうね!!」
と、耳元で声をかけた私。
何と、奇跡的に「うん!」と大きな声で返事をしてくれました。
そして、そのまま年を越すことが出来たんです。
#父の献身的な看病
#ほとんど寝てなかった
おばぁちゃんがそんな状態なので、家族でお正月に集まるのは中止にしようかという話も出ていました。
だけど、きっとおばぁちゃんが元気なら、
「ワシが理由で集まらない何ておかしい!」
と、きっと怒られる。
しかも、当のおばぁちゃんは、年越し以降呼吸が止まることなく安定していました。
まだ、持ちこたえてくれそうだから、予定通り集まろうか。
こうして、1月2日に両親と私の姉2人夫婦、子供達8人の総勢15人が実家に集まりました。
特に姉家族は、遠方から来なければいけないため、盆と正月くらいしか顔を合わせることがありません。
だからこそ、集まることが出来て良かった。
おばぁちゃんのことは心配しつつも、いつも通り、ワイワイ楽しく過ごしました。
そんな家族の集まりを終えて、片付けが済み、各自明日には自宅へ戻ろうかと準備をしていた1月3日。
19時頃に、点滴を入れることが決まり、数日は大丈夫だろうという医師の言葉もあったため、27日から一日も欠かすことなく病院に寝泊まりして看病してきた私の父も、安心して母と看病を交代しようと帰ってきました。
おばぁちゃんが、心から信頼し、いつも頼りにしていた私の母。
その母が父と入れ替わってから1時間もしない頃。
少しずつ呼吸か弱くなっていることに気づいた母から家族に電話が入りました。
「もうダメだと思う。」
看護師として長いこと務めあげた母の口から初めて出た諦めの言葉。
全員が、覚悟した瞬間でした。
それから30分後、苦しむこともなく、静かに息を引き取ったおばぁちゃん。
家族の全員が無事に集まることが出来、遠方に帰ることなくとどまっている最後の夜の出来事でした。
どこまでお節介なんだろう。
最後の最後まで、お節介を貫き通した強い女性の最期の姿。
葬儀では、年端もいかない曾孫まで全員が涙を堪えきれずに号泣し、
「お疲れ様でした」
「ありがとう」
「行ってらっしゃい」
と声をかけました。
親族全員に見守られながら、旅立って行ったおばぁちゃん。
そして、通夜と葬儀は滞りなく終わり、全員が仕事始めに遅れることなく新年の仕事に向かえるそんなタイミングでした。
そんな所まで、お節介だなと感じさせられる。
信念を貫き、強く生きた最強のお節介おばぁちゃん。
そんなおばぁちゃんから、最後の最後まで背中を押して応援された気がしています。
2025年もスタートして早8日目。
気合を入れて、仕事頑張るぜ!!
おばぁちゃん。
ほんとにほんとに、ありがとう。
自由に歩けるだろうから、あっちでまた元気にやってください!
大好きです♥
上手く言葉にできないだろうとは思いつつ、どうしても、自分の言葉で今の気持ちを残しておきたかったので、この記事を書きました。
最後までお付き合い頂き、ありがとうございます😊
本年も、よろしくお願い致します🙏
じゃ、またね〜!