NO.94
前田櫛人の人生は、94という数字に支配されていた。
毎朝6時94分(実際には7時34分)、彼の寝室に置かれた昭和レトロな目覚まし時計が鳴り響く。
彼は習慣的に時計を94秒間眺めてから、ようやくスイッチを切る。そして、94秒間のストレッチを始める。
つま先から指先まで、全身の筋肉を目覚めさせながら、窓から差し込む朝日を浴びる。
朝食は94キロカロリーを厳密に計算したもの。全粒粉トースト1枚、ゆで卵半分、サラダ少々、そして94mlの無脂肪乳。食事中、彼は94円の朝刊を94秒で斜め読みする。
活字の海から必要な情報だけを素早く拾い上げる技術は、長年の訓練の賜物だった。
身支度を整え、9時4分発の電車に乗り込む。
いつもの角度で新聞を広げ、周囲の乗客と目が合わないよう気をつける。
オフィスには9時44分きっかりに到着。エレベーターを降り、きびきびとした足取りで自分のデスクに向かう。
仕事の効率は常に94%を目指す。それは完璧すぎず、かといって手を抜いているわけでもない、絶妙なバランスだった。
昼食は94分で済ませる。社員食堂で94円のみそ汁を啜りながら、仕事の段取りを頭の中で整理する。
帰宅は21時94分(実際には22時34分)。
アパートに戻ると、94秒のホットシャワーを浴びて一日の疲れを流す。
就寝前の94分間は、趣味の切手収集にあてる。世界中の94円切手を集めるのが密かな楽しみだった。
同僚たちは彼の几帳面さに呆れつつも、その仕事ぶりを評価していた。
新入社員は特に彼に憧れ、「くしひとさんの94点理論」を熱心に学んでいた。
ある水曜日の午後、新入社員が彼のデスクを訪れた。
「櫛人さん、失礼ですが、なぜそこまで94にこだわるんですか?」
彼は手元の書類から目を上げ、少し懐かしそうな表情を浮かべた。
「実はね、小学生の頃のエピソードがきっかけなんだ」
その日、算数の授業中、先生が「6と94を足すと何になる?」と質問した。教室に響く鉛筆の音。クラスの誰もが簡単な問題だと思い、すぐに「100」と答えた。しかし、彼は違った。
「先生、6と94を足すと幸せになります」
クラス中がどよめき、先生も困惑した表情を浮かべた。
彼は真剣な顔で続けた。
「だって、94点は十分素晴らしい点数です。でも、まだ完璧じゃない。そこに6点を加えれば100点になる。つまり、94点の人生に6点の余裕や遊び心を加えれば、それが幸せな人生になるんじゃないでしょうか」
先生は感心し、クラスメイトたちも彼の答えに納得した。
「でも、前田君・・・あなたのテスト結果・・・」
確かその時も94点を僕は取ったんだったかな。
その日以来、彼は94という数字に特別な意味を見出すようになったのだ。
話を聞いた新入社員の目が輝いた。「素晴らしい考えですね!」
彼は照れくさそうに頷いた。「ま、そんなわけさ」
その金曜日、彼は94分かけて週末の予定を立てていた。
きっちりとしたスケジュール表を眺めながら、彼は満足げに頷く。その時、携帯が鳴った。
画面に表示された名前を見て、彼は思わず眉をひそめた。未菜。幼なじみで、彼とは正反対の自由奔放な女性だった。
「もしもし、くっしー? 久しぶり!」元気な声が響く。
「ああ、未菜か。どうかした?」
「明日から泊まりに行くわ! 久しぶりに飲もうよ!」
櫛人が断ろうとする前に、未菜は電話を切った。彼は溜息をつきながら、きっちりと立てた予定表を見つめた。
翌日、未菜は予告通り彼のアパートに現れた。
しかし、その到着時間は櫛人の予定していた10時94分(11時34分)ではなく、予想外の15時12分だった。
「やっほー! くっしー!」派手な花柄のワンピースを翻し、満面の笑みで玄関に未菜は立っていた。「相変わらずキレイな部屋ね!」
靴を脱ぐなり、未菜はソファに飛び込んだ。彼の目の前で、几帳面に畳まれていたブランケットが崩れ落ちる。
その日から彼の94点生活は崩壊した。未菜は深夜まで騒ぎ、昼過ぎまで寝る。食事の時間も量も不規則で、片付けは全くしない。リビングには空き缶や菓子の包み紙が散乱し、キッチンには使い終わった食器が山積みになった。
「ねえくっしー! たまにはいいでしょ? 人生楽しまなきゃ!」未菜は笑いながら、冷蔵庫からビールを取り出した。
彼は内心穏やかではなかったが、幼なじみの顔を立てて我慢していた。しかし、3日目の夜、ついに爆発した。
「もういい加減にしろ! 君は僕の生活を台無しにしている!」彼の声が部屋に響く。
未菜は一瞬驚いたが、すぐに柔らかな笑顔を浮かべた。「ごめんね、くっしー。実は、あなたに見せたいものがあってね」
そう言って、未菜はバッグから一枚の紙を取り出した。それは古びた小学校のテスト用紙だった。
「覚えてる? あなたが私の家に泊まった次の日のテスト。寝坊して勉強できなかったのよ」
彼は紙を受け取り、目を丸くした。そこには赤ペンで大きく「6点」と書かれていた。
「このテストの後、あなた泣きそうになってたわ。でも私が『6点でもいいじゃん! 次頑張ればいいさ』って言ったら、あなた笑ったのよ」
彼は忘れていた。94点にこだわる前の、もっと自由だった自分を。そして、「6と94を足すと幸せになる」と言った日のことを思い出した。
「未菜...ありがとう…はは…ははははは」
彼は久しぶりに心から笑った。その笑顔は、まさに100点満点だった。
それ以来、彼は94点にこだわりつつも、時には力を抜くことを学んだ。彼の人生は、94点と6点のバランスを取ることで、より豊かになっていった。時には計画を外れることもあったが、それも人生の味わいだと受け入れられるようになった。
彼は、自分の机の上に「94+6=幸せ」と書いた小さな札を置いた。それは彼の新しい人生哲学の象徴となった。そして、時々未菜に電話をかけ、計画外の楽しい時間を過ごすようになった。
彼の人生は、94点の几帳面さと6点の遊び心が絶妙なバランスで混ざり合う、まさに100点の幸せな日々へと変わっていったのである。
「ねえ、くっしー?今日は何の日か忘れてない?9月4日よ」
みながくっしーに笑顔で送る
「誕生日おめでとう!!」