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「風邪ひくなよ」

 これが、私が彼に最後にかけた言葉だった。風邪ひくなよ。"You too"と言って彼は電車を降りた。降りた後も、私は彼を目で追っていた。いつも通り、彼は振り返らなかった。彼は別れたあと、一度も振り返って私を見たことはなかった。

 別れたあと振り返るのは、私の癖なのかもしれない。多分、大学生の時に最初に付き合った彼と初めてデートした後、西武池袋線の池袋駅まで彼が見送ってくれて、自分が振り返ったのを覚えているからだ。別れ際、キスをしようとしたけど、やめて代わりに頭突きをした、というエピソードを彼から言われたことも覚えてるからだろう。それ以来、誰と付き合っても、何となく振り返って相手を確認するのが癖になっている。

 最後の言葉を交わしたのは、月曜の朝で、私はオフィスに向かう途中、彼は家に帰る途中だった。前日の日曜日、いつも通り一緒に出掛けて、いつも通り私の部屋に来て、飲みながら話していた。ある瞬間、私の中の何かがはち切れて、泣き出してしまった。前週、私は母夫婦の元を訪れて、彼らのこれからの計画を聞いて帰ってきたところだった。来年にはアメリカから出て移住すること。たったそれだけなのに、今まで母を頼ってきたつもりはなかったのに、途端に心細く、同時に、自分も家族を持ちたいなぁと初めて心から思ったのだった。中途半端な、よく分からない関係のこの子と、いつまでも一緒にいるわけにはいかない。ずっと思っていたのに、遂にお別れのタイミングが来た、ようやくそう思えたのだ。

 彼には、正直に、思ったことを全て話した。母夫婦が移住すること。心細くなったこと。私も、何だかようやく自分の家族を持ちたいと思ったこと。子どもを産めるリミットも迫ってきていること。私と同じように、家族を作りたいと思っている人を探したいと思っているということ。だからもうこの関係は終わりだということ。もともと私との関係を、8歳の年の差があるから長期的に見てうまくいかないと思ってる、と言っていた彼。そして、このいざこざもこれで3回目である。私のこの告白に、何も言えるはずがない。実際にどう思ったのかは分からないけど、私の言い分は頭では理解したようだった。

 色々話していたら、6時から12時過ぎになっており、このまま帰すのは気が引けたので、何の準備もなかったが、そのまま彼を泊めることにした。私は次の日は出勤と決めていたので早々と寝たが、何だか最後に彼の優しさを感じた。私は私の生活を邪魔されたくないので、次の日は時間通り起きて、準備して、一緒に家を出た。

 電車で何を話したのか、もう覚えていない。次の駅で最後だ、という時に、ぎゅっとハグをして、最後なんだ、ということを嚙み締めたということだけ。本当は、今までいっぱいありがとう、ということを言いたかったけど、その日は寒かったので「風邪ひくなよ」ということしか言えなかったことが悔やまれる。これまで約1年一緒にいて、充分な感謝が伝えられたのか、分からない。伝わってると良いな。

 いつもと同じ月曜日がある、というのはとてもありがたいことだ。変わらない日常がそこにある。変わらない同僚、上司がいて、他愛もない話ができる。コーヒーを淹れながら、休み時間に、帰りの支度をしながら、今朝の話をする。えーそれってー、でも仕方ないですよね、それワンピースのセリフですか?何かっこつけてー、それぞれ違う反応をくれる。夜には、美味しいごはんとお酒を一緒に食べて飲んでポジティブな言葉をくれる仲間がいる。それだけで、幸せなのかな。おかげで自分は大丈夫だと思える。

 それでも一週間以上経った今も、実は何だかぼーっとしている自分がいる。でもきっとそのうち大丈夫になるだろう。母によると、母が寂しくなるくらい、私ももともと後ろを振り返らない「ハートが強い子」だそうだから。


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