誰かのために時間を犠牲にすることに価値を感じなくなった_#59
望みを伝えられる自分になっていく。与えやすい存在になっていく。わかりやすく欲しいものを欲しいと言っていく。それを与えたいと思うかどうかは世界や相手の選択であって、私にコントロールできることではないんだよね。私にできることは欲しいものを欲しいとただ伝えるだけ。
私がこれだけ人生に真剣に向き合う理由はね、20代の前半でお父さんの死に際に立ち会ったことと、そのすぐ後にお母さんも死にかけたから。
父親は酸素マスクと点滴の管に繋がれて、起き上がることも話すこともできなくて、ただ病院のベットに横たわりながら人生の最後を迎えた。ある時、主治医が『延命治療はしますか?』とお母さんに聞きにきたんだよね。お父さんは最後の力をふり絞って首を少しだけ横に振ったの。
もし私が病院のベットで、もう起き上がることもできなくて、その時のお父さんと同じ状態だったら私も延命治療を拒否するだろうし、日本では認められていないけれど安楽死ができるならそれを選択するんじゃないかなって考えた。
生きていても意味がないとは言わないけれど、苦しくて体の自由も効かなくて、そんな自分のために病院に通い続けて時間を犠牲にする家族を見続けたいとは私は思わなかった。本当の意味で大切な人には私のためじゃなく、その人自身のために時間を使ってほしいと思う。体が自由に動くことがどれだけ幸せかを体感したし、人生の最後をどう過ごしたいかも本気で考えた。
そして父親が亡くなった3年ほど後かな?今度はお母さんが倒れてICUに入ったの。夜中の病院で『もし何かあった時にはあなたに処置の有無を判断していただきます。たとえば延命治療の判断とか。』って言われたわけ。涙も出なくて冷静に受け止めたんだよね。『あぁ、そっか。遅かれ早かれこういう決断をしなくちゃいけない瞬間って来るんだ。』って。自分の一言でその人の命がどう扱われるかが決定してしまうって恐ろしいよね。当時23歳の自分には荷が重かったけれど、人の死に直面して人生観は大きく変わった。
その後、母親は回復して今は元気だけれど、自分は人生でどんな後悔をするかなってリアルに考えられるようになったの。親は私よりも先に死ぬだろうし、親のために生きていたら後悔すると思ってその後すぐに上京することを決めた。
『親が悲しむから近くにいよう』とか『親が心配だから助けてあげよう』とか『親を安心させるために大企業に就職しよう』そうやって親のために自分の人生を選択してしまうと、親を亡くした後にきっと後悔すると思うんだよね。親のために選択した自分を認めてくれる存在(親)を失って、なんのためにこの選択をしたのかわからない自分だけが取り残されてしまうって感じたの。そして親のせいにしてしまう生き方になっちゃうんじゃないかって。
親の希望に沿って将来を決めたり、子どものせいで自由を失ったと思ったり、楽だからついつい人のせいにしてしまいがちだけれど、私は自分じゃない誰かのせいにする人生は嫌だって思った。
自分と自分以外を切り離して考えられるようになったんだよね。冷酷って思うかもしれないけれど、自分を幸せにできるのは自分だけだし、自分の人生の責任は他の誰も取ってくれない。親でさえも、私の人生の全ての責任は取ってくれない。だってきっと先に死ぬだろうし、誰だって自分の人生で精一杯のタイミングがあるから。
それを理屈じゃなくて、現実的に体感できたのは私の財産だって思う。
どんな瞬間も、人生の最後までを寄り添って歩んでいけるのは自分だけ。この意味が本当に理解できた時、誰かのために自分の人生を選択したり、誰かのために時間を犠牲にすることに価値を感じなくなったの。自分以外ぜんぶ他人で外野じゃんって。
先月ね、自分の声に寄り添えるようになって『今死んでも後悔しない』って思える瞬間があったの。自分のインナーチャイルドさんと手を繋いで沖縄の離島に旅に出た。ひとりで海に浮かびながら『もしこのまま鮫に襲われて死んだとしても後悔しない』って思った。まだ未来にやりたいことはあるのだけれど、今できる精一杯を生ききっているって心から感じたから。自分の幸せが何かを理解して、叶えてあげられる自分になったと気づいたから。心が幸せすぎて泣いた。
感動して泣くとか、悲しくて泣くとか、涙を流す要因は日々の暮らしの中であると思うんだ。だけど、心が満たされすぎて幸せすぎて泣ける瞬間を体験できる人ってどれくらいいるかな?
この幸せを感じるためにはインナーチャイルドの解放が必要不可欠なんだよね。自分の心の声を聞けるようになって、自分の望みを叶えられる自分になる。自分と根気強く向き合う精神力を身につける。修行だよ。自分自身とどれだけ向き合うかで心の豊かさは拡大していける。
『私はどうしたい?どう生きたい?』を常に問い続けて自分の選択で現実を動かしていく。