「とらわれてなんかいないよ TAKE THIS HAND」という救い
音楽は言葉を伴わない単体でも景色や情景を描くことができる。
無機質な部屋に音楽を満たすと、室内の空気が色づき表情を変える。
それはライブハウスだったり、昼下がりのカフェだったり、真夜中の自室だったりする。
映画やオペラの背景であったりもする。通勤電車で世界から隔絶するための手段にもなる。
音楽は宗教に似ている。
それは祈りを内包する場合が多いからだ。
それは概念を信じるという場合が多いからだ。
昔は、「いい音楽」とされるものを判断できる自信がなかった。
多くの人に愛されてヒットしたものが「いい音楽」なの?
評論家や、知識人や、雑誌にもてはやされるのが「いい音楽」なの?
歴史に残る名盤とされるものが「いい音楽」なの?
認められていないものは「いい音楽」ではないの?
そもそも音楽ってなんだ?音なの?曲なの?歌なの?歌詞なの?概念なの?
正直なところ、私は昔「音楽」の概念が大きすぎて分からなかった。
ただ、よくわからないものであるのに関わらず、「音楽」は私の人生の中で色彩を放ち、情景を見せ、物語を内包し、月光や静謐さを描き出すような奇跡を見せてくれた。
音楽に内包される歌詞は、祈りの文言に近いとも思った。
そう思うと、キリスト教が聖歌を合唱するということに納得がいく。
合唱という行為は、無私の境地に近い。
個人であることを忘れ、体の芯からの声を集合体として響かせる。
それは、きっと祈りを体現する行為に最も近い。
私にとっての「音楽」は祈りや情景を内包する媒体だった。
歌詞は祈りの言葉になる。
自分を導いてくれる言葉である。
聖書の一文よりも重い切実さで、私は何度も祈りを歌に重ねた。
*
大人になって、「音楽」とされるものが、どういうものかがやっとわかってきた。
そして「いい音楽」とは、個人主観での感動と紐づくものでしかない、ということも分かってきた。
当時の私が、彼らの音楽・この曲と出会っていたとしたら。
人生のつらい折々で、一人きりで絶望して膝を抱えているような時に、祈りを込めて縋るように何百回も聴いていただろうと思う。
「信じさせてくれるもの」
それが、大きな意味での「音楽」に対して、かつて私が求めていた価値だった。
それはきっと、人生に迷った人が絶対倫理としての「神様」を求める宗教と同じ形をしているものだと思う。
*
タイトルに引用した歌詞はLIPHLICHのFLEURETという曲である。
なぜこの曲が、これほどに特別なのか。
この曲が三年ほど前に発表された時、どんな衝撃を受けたのか。
そして、その時に覚えた驚きと、彼らの覚悟に対する畏敬は、一生損なわれないと今になっても改めて思う。
生半可な覚悟で、形にして、発表することのできる代物ではない。
大人として、多くのものを目にし、素晴らしいものもくだらないものも、多くのものを自分の目で確かめてきたからこそ、やっと言えるのだけど。
「覚悟がないと言えない言葉」
「覚悟がなければ、中身がないと見抜かれてしまう言葉」
というものが、世の中にはある。
「その場限りの言葉」というものは、世の中に溢れている。
「その場では絶対的だけど、永遠ではない」という意味の「その場限りの言葉」だ。
かつてLIPHLICHはVESSELという曲の中で
と歌った。
この言葉に救われたことも、何度もある。
消えない悪夢のような過去のフラッシュバックの中で繰り返される呪いの永続性を、この言葉は消してくれた。
「あの時、あの人に、こう言われた」
その呪いは、「言葉がその場限りのものである」という示唆によって効力を失い、私はフラッシュバックに苦しむ必要がなくなった。
かつて「言葉はその場限りのもの」という示唆で、私を救ったLIPHLICHが
このFLEURETという、半永久にも近い覚悟を必要とする歌を作ったこと。
その意味と、重みを、改めて考えてみたいと思う。
*
FLEURETのどこがそれほどに「覚悟」を必要とする歌なのか。
FLEURETを聴いて、一番驚いたのは、その潔いまでの曲のシンプルさだった。
これまで築き上げてきた複雑でトリッキーな「LIPHLICHらしさ」をかなぐり捨ててみても、この曲は正々堂々とLIPHLICHらしくあり、そして幻を描き続けてきた彼らが実力を付けて、腹を据えて正面から斬り込んだことが伝わるほどの強さがあった。
曲の冒頭のワンフレーズが、まっすぐに聴き手のもとへ届く。
登場人物は「僕」と「君」であり、「僕」が「君」へと届けるだけのメッセージである。
これは彼らの得意な物語や幻ではない。
LIPHLICHから、曲を耳にした全ての一個人への、宣戦布告であり、差し伸べた片手なのである。
初めてこの曲を聴いた時は、めちゃくちゃ直球で格好いい曲だなと感じながら、反射的に「これ、真に受けたら負けだ」と思ってしまった。
聴き手である自分に手を伸ばされていると信じてしまうと、盲信するしかなくなってしまう。
悩みと絶望で身動きが取れなくなったかつての私に、こんな手が差し伸べられていたら、どんなに救いに感じただろうと思う。
問題を解決する方法も知らず、その能力も自分にあると思えず、無力さで絶望しながら座り込むことしかできない時に。
一番言ってほしい言葉だったなと、今更になって思う。
「何にも捕らわれてなんかいないよ」
とまっすぐに差し伸べられた手をつかんで、全てから逃げ出すことができたら。
こんなに真正面から、手を差し伸べて
「君だけを連れ去ってみせる」と聞き手にまっすぐに伝えるには、
「信じていい存在だ」と思わせるだけの自信と覚悟と説得力が必要だ。
物語は完結したその中で意味が成せればいい。
しかし、何年後にも再生可能なメッセージとなると、彼らは作品を過去のものとせず、差し伸べた手に責任を負い続ける必要が発生してしまう。
LIPHLICHがLIPHLICHというバンドとして存在し続けること。
期待と信頼を裏切らない音楽を続けていくということ。
付いてくる価値のある存在で居続けるという覚悟と宣言。
何年たっても色褪せないそのメッセージを作品として背負いながら、
「信じてくれるなら、君を新しい世界へ連れ出す」
と契約を持ちかけているのだ。
生半可な覚悟や実力で、安易にできることではない。
そして、それはその場限りの無責任な誘いではない。
幻や物語を音楽で描き続けてきた彼らが、初めて一切のまやかしを排して、
正々堂々と礼儀正しく跪いた誘いであると言ってもいいのかもしれない。
心の底から格好いいと思う。
絶望して座り込むことしかできない誰かの救いになることは間違いない。
少女の頃に、この曲と出会って、彼らの差し伸べた手を握って、うんざりしていた人生全てから背を向けて逃げてしまうような人生を送りたかった。
新しい世界へ飛び込んでいく勇気を与えるということなのかもしれない。
人生を狂わせる誘い。
それを引き受けるだけの価値を自負した覚悟と実力。
音楽というものに人生をかける覚悟をしている実力者にしか、できない魔法だと思う。
*
あまりの潔さと、驚くほどの覚悟。
そして礼儀正しく差し伸べられた手。
その手をつかんだら、どうなるか。
私は彼らの音楽を何年か必死で見守ってきたから、その先はどうなるかを知っている。
彼らの音楽が見せる幻は、信じる価値がある。
自分自身の人生がどうでもよくなってしまうほど。
知る人ぞ知る一世一代・稀代のイリュージョニストでロックスターであることは間違いない。
私は彼らのことを知っている。
そしてそれを、信じている。
彼らが彼らの音楽を続けること。
誇り高く、格好いい実力者であること。
そして第一級の魔法使いで、とびきりの幻を見せ、引っ張り込まれた人の人生を変えてしまうことを。
私は十年後も、おそらく二十年後も、彼らのことを信じている。
もし活動が止まっていたとしても、彼らが彼らの音楽を誇りに歩み続けることを。
手をつかむ時点で、人生をかけているのだ。
彼らの自負と覚悟は凄いものだが、多分、信じている客たちも心から彼らを信じている。
そして未来を信じている。
そんなことを改めて思ったので、久我さんの誕生日祝いにここに書き記しておきます。