縄文スローライフを旅するー北海道篇ー
この10月12日から16日にかけて「北海道・北東北の縄文遺跡群」(今年『世界文化遺産』に登録)の北海道の部分を周ってきました。縄文時代がものすごく身近に思えてきました。
どこもカーナビに出てこない
北海道で世界文化遺産に登録されたのは函館のほうから札幌方面への道筋でいうと垣ノ島遺跡、大船遺跡(いずれも函館市)、高砂貝塚、入江貝塚(いずれも洞爺湖町)、北黄金貝塚(伊達市)、キウス周提墓群(千歳市)です。
私は12日の午後に新千歳空港に着いて札幌に宿泊し、レンタカーで翌日からまずは函館市を目指して函館に一泊、それから次の日洞爺湖に一泊、最後にまた札幌に宿泊して翌日ゆっくり帰る旅程にしました。ただ最後の一泊はなくても帰りの飛行機便を夕方遅くにすれば3泊でも十分だったと思います。
レンタカーで回って困ったのはいずれもその名称を入れてもカーナビに出てこないことです。仕方ないのですべてですがそれに関連する事務所、資料館の電話番号で検索し、そこを目標に移動を行いました。
これには『北海道・北東北の縄文遺跡群を旅するガイド』(昭文社 2021)がとても役に立ちました。役に立つというかこのガイドなくては余裕をもって周れなかったと思います。初日の札幌から函館への移動では遺跡には立ち寄らず、「森町遺跡発掘調査事務所」(外観は土木関係の事務所みたいで初めてだと少しだけ入るのに勇気がいりますが、事務所の人たちはとても親切です)に立ち寄ってあらかじめ少し縄文時代の勉強をしたのですが、これもこのガイドブックの紹介あってのことです。
ただ、それでも難しいのはキウス周提墓群で、関連する「千歳市埋蔵文化財センター」で場所までの地図もらってもなお見当のつけにくい場所にあります。周提墓群のガイドさんに聞きましたが、苦労したのは私だけではなく、新千歳空港の案内所で聞いてもどこだかはっきりわからなくて、たどり着くのにとても苦労したお客さんもその日の午前中にいたとのことでした。
縄文時代ってとてつもなく昔なのか?
自分の場合、国立科学博物館の3万年プロジェクトにも少し関わることがあったので、比較的石器時代や縄文時代にも親しみを持っていました。ただそれでもどれほど昔なのかというスケール感はなかなかイメージし辛いものがあります。
人間の脳の構造的なものなのでしょう、今日明日の時間なら普通に把握できるのですが、過去のこと、とくに自分の生まれる前の話になるととたんにそのスケールがわからなくなってしまいます。とても昔の話というと、恐竜の化石が発見された話と縄文時代の人骨や土器が発掘された話と同じスケール上で縄文のほうが今に近いところにあるなんて思ったりしがちです。
でもっそれって根本的に使う物差しが違っているのは時間を距離に直してみると歴然とします。仮に恐竜が棲息していた1億年前を100メートルとします。野球の球場では打球がライト線やレフト線のフェンスに直撃する位の距離です。それで縄文初期の1万年前がどれほどになるかというと、100万年で1メートル、1万年ではたったの1㎝です。1㎝の立ち位置の違いでもバッターにとっては打撃に影響する大変なことかもしれないですが、他の選手からは目線の角度が変わるほうがよほど気になる程度のとてもわずかな距離です。
もう一つは自分の何代前なのかと考えてもその近さはわかります。家系図を書くとなると、仮に資料が残っていたとして、江戸時代に遡るだけでも一大プロジェクトになってしまいますが、母系だけを辿る、自分の母は誰でその母は誰でそのまた母は誰でというだけなら資料が手元にあれば5人の名前も書けば100年前まで辿れるでしょうし、それで考えれば500人の名前を書くだけで1万年前まで遡れることになります。A4のレポート用紙1枚に書ききれる程度です。
縄文時代なんてほぼ今の時代、縄文土器も考古学的な遺物としてでだけではなく、『なんでも鑑定団』の美術品として出してもそれほどおかしくないようにも思えるのです(作者不詳ですが)。
生活は大変だったのか?
それでも生活は大変だったのではないか?これには諸説あるかと思います。ただ次の二つの点は事実だったようです。
1.今よりずっと温暖だった 2.戦争がなかった いやぁ、初めから疑問だったんですよ、なんでわざわざ北東北とか北海道とかよりにもよってそんな寒いところに住むのかって、十分な暖房設備もない時代に・・行って勉強してよくわかりました。当時の北海道の渡島半島って今の房総半島、伊豆半島、紀伊半島みたいに暖かかったのね。なんかね、戦争もない平和でのどかな南の島で暮らしたいなぁ、趣味のことしてスローライフをなんて20代30代のころはよく思っていたのですが、なんだ縄文時代なら20代30代の人たちそうやって暮らしてたんじゃないの、それに就職口もあって、身体が元気なら即戦力だよ。(←突然文体変わってすみません、あまりに縄文時代が身近に思えてきたもので)
魚もよく食べていたみたいですね、船出して網でマグロなんかも捕ってたみたいですし、ニシンも捕れてたけどかなりの部分は黒潮の流れに乗った暖海魚だったんですね。今年は北海道でサケが不漁でブリばかり捕れてるってことですけど、歴史的にはあまり珍しいことでもないみたいです、歴史といっても「ついこの前」位の前では・・
今の今より暖かかったのは日本列島だけでなく世界的にそうだったみたいで、当時は海面も上昇していたみたいです、「縄文海進」って言葉また一つ覚えました。なんとなんとその当時の推定地形図をネットで調べてみると、関東沈没してるではないか! 道理でというか遺跡や貝塚のある場所って、海から近いとはいえ、漁師のうちだったら軽トラ位は欲しい小高い場所にある、でもそれって今の海面見てるからであって、当時はほとんど海辺に暮らしていたということなのですね・・・
スローライフを満喫、しかし・・
まあ、とにかくそんなこんなで気候が温暖だったのと、何より戦争がなかったというのが自分の生きている時代とは少し違っているところなのでしょう。ただ、何千年も戦争がなかったとはいうものの暴力とか殺人は当時もあったようです。(「世界から見た北の縄文」新泉社 2018中の松本直子氏の説)
私の想像ですが、いくらのんびりした平和な社会でもひねくれた奴とかとんでもなく粗暴な奴(スネ夫やジャイアン)は時々いたでしょうから、個人間の諍いはよくあったことでしょう。男女関係のもつれ(出木杉としずかちゃんがぁ!)だってあったでしょう。でもそれが大事にならず、最悪でも突発的な単独殺人で終わってるくらいですから、サスティナブルな生活を続けるための社会的な仕組みもあったのだと思います。
因みに戦争はなかった、でも殺人はあったというようなことは、発掘された骨の創痕、その骨が男のものか女のものか、成人のものか子どものものか、埋葬のされ方や遺体のおかれていた状況などからわかるものなのだそうです。まだまだせいぜい500世代くらい前の話ですから司法解剖みたいにしてある程度当時の状況がわかるということも理解できます。
来週は北東北の遺跡群も見に行く予定なので続きは次回に・・・