「KANタービレ~今夜は帰さナイトフィーバー~」の今更ながらの感想
2024年11月12日、ぴあアリーナMMで行われた「KANタービレ~今夜は帰さナイトフィーバー~」の至って個人的な感想です。「ライブレポ」ではないです。基本的には「現地に見に行った人向け」になると思います。
いつもはライブの感想はTwitter(って呼びたい人なのでそう書きます)に書くのですが、青バッジついてないから長文投稿できないし、連ツイしようにも限度があるし、でも思ったことをちゃんと書きたいし、というわけでnoteにアカウントを取ってそこに投げることにしました。長文書ける場所は前からあった方がいいと思っていましたし。
しかし、そう決めてから書き始めたら、リミッターが外れちゃったみたいで、想定してた文章量の5倍ぐらいになってしまった。自分でちょっと引いてます。
いや、それにしても泣いた泣いた。あんなに涙がつーつー出ると思いませんでした。
というのも。
基本的にわたしは脳の回路のどこかがぶっ壊れているらしく、有名人でも知人でも誰かが亡くなったことをいつまで経っても「実感」できないのです。「ずっと会えてないだけ」みたいな感じになる。で、極言すると「ずっと会えないならその人が生きていても死んでいても自分にとっては同じことである」と、どうも感じているらしい(自分のことなのに他人事のような書き方ですが)。
気がついたら連絡がつかなくなって、できればもう1回ぐらい会いたいけどおそらくもう二度と会えない人がわたしの今までの人生にたくさんいます。そういう人たちと、亡くなったので会えない人は自分の記憶の中で同じフォルダに整理されています。縁が切れた人が今も元気でいるかそうではないのかを知るすべはないのですが、「亡くなった」とされている人がほんとうにこの世界のどこにもいないのだと確かめるすべも、またないのです(世界中をサーチする神の目を持たないので)。なのでずーっと「まだこの世界のどこかにいる気がする」と、現実逃避ではなくごくナチュラルに思い続けている。
亡くなったのをこの目で見てないからかな、とも思うのですが、10年以上前に亡くなった実父のことも、ちゃんと見送ったにもかかわらず未だに実感しきれずにいます。(結婚して実家を出てから実父と会うのは年に2回ぐらいだったのが理由として大きいです。たぶん一緒に住んでいる家族が急にいなくなったら、不在を毎日確認せざるを得ないのでものすごくつらいしきついだろうと思います。ああいかんそれは想像もしたくない)
なんか難しいなあ、こんな説明で伝わるのだろうか。
KANちゃん(って書きますね、年上だけど、ずっと自分の中ではそう呼んでいた)が違う星にお引っ越ししてしまったことで自分に影響があることと言えば「コンサートがない」とか「新譜が出ない」とかしかなくて、そもそも新譜は何年も待たされるものだし(笑)、コンサートだってわたしが行ってたのは年に1回か2回?それの間がちょっと空いてるだけ、ぐらいの感じしか持てない。
「もうKANちゃんのライブは二度とないんだなあ」とか、ときどきふっとよぎることはあるんですけど、それはしんみりした寂しさで、わんわん泣くとかそういう感じではないんです。
この1年、ずっとそんな感じで来たので、KANタービレも周りが泣いてても自分は淡々としてるんだろうなあと思ったんですよ。それがですよ。
オープニングの映像でまずちょっと涙腺を刺激された。そこは耐えたんですけど、1曲目でスクリーンにKANちゃんのライブと全く同じフォントで歌詞が表示されたときに、もうだめだった。曲タイトルに括弧書きで表記された発表年。これ全くもってKANちゃんのライブじゃん、って思った瞬間にぶわっと涙が溢れてきました。 そこで決壊してしまったので、そのあとも「君が好き胸が痛い」で泣き、「Songwriter」で泣き、「カサナルキセキ」でボロボロ泣き、「ロックンロールに絆されて」でどうしたって泣き、「よければ一緒に」は元気に歌ってたのに天井見上げた途端に急に喉が詰まり。ライブが終わる頃には目がちょっと痛かった。
ただそれが「感情の高ぶり」みたいな涙だったかというと、そうではないんです。だからしゃくりあげたり声が出たりとかはしなくて、ただ静かに涙が出てくる。どうもそもそも「悲しい」ではなかったような気がする。涙が出た理由とかそのときの自分の感情とかを言語化しようと試みましたが、自分でも分かってないので諦めました。
(ただ、涙が出てくるとき、「KANちゃんの不在」が「理解可能な現実」として自分の胸にわずかに差し込んでいるような気はします)
これはライブの感想ですらないな、自分語りだな、すみません。
少しはライブの感想も書こう(笑)
今回の出演者の方々は、わたしが元々好きで聴いていたアーティストが半分以上で、それ以外の方もap bank fesとかで一度ぐらいは見たことがあって、たぶん生で聴くのが初めてだったのは谷村有美さんぐらい? なのでどの人も歌がうまいのは知ってる、安心してKANちゃんの曲の良さに浸ることができましたし、それにしてもみなさんいい声だなあと再確認したりしました。
KANちゃんの曲をKANちゃんじゃない人が歌うことにいろんな方がいろんなことをおっしゃってるのをSNSで読みましたけども。わたしは、基本的に音楽は歌われて、演奏されてナンボだと考えていて、もちろん音源も映像もあるからそれらが再生されていくことでも残っていくのだけれど、いろんな人が自分の中で曲を理解して解釈して、その人の手から、喉から、新しくその曲が奏でられることで曲はもっと厚みを増して育てられていくと思っているのです。ビートルズの名曲とか、山ほどカバーされていろんなアレンジと解釈と表現が生まれて、じゃあオリジナルの音源が聴かれなくなっているかというと決してそんなことはない。あんな感じで、いろんな形でKANちゃんのメロディや詞に触れた人がオリジナルに戻ってくれるといいなあと思ったりします。
散々言われていることですが、やはり各アーティストへの曲の振り分けがすごくよかったですよね。選曲そのものもツボを押さえていて、KANちゃんを知らない人にまず聴かせるならこのあたりから、という、出演者ファンの方に「はじめてのKAN」として紹介するのにぴったりのセットリストだったと思います。後半はライブの定番曲も入ってましたし。
(そりゃもう、あれがないこれがないは言いだしたらきりがない。でもその曲を入れる代わりに何かをセトリから抜くとなったら抜ける曲がないので、つまりは1回のライブではとても足りないのだからしょうがないですよね)
で、みなさんよかったのですが、中でもミスチル桜井さんとスキマの大橋さんは「KANちゃんガチ勢」っぷりがずば抜けていましたね。半端なく聴き込んでいるのが伝わってくる。今回のライブでみなさんのカバーを聴いていて、ほんとに小さな譜割とかリズム、メロディーラインの原曲との違いが気になってしまったことがありました。でも桜井さんと大橋さんはそれが一切なかった。
曲の自分への引き寄せ方はそれぞれちょっとアプローチが違って、桜井さんは「君が好き胸が痛い」も「まゆみ」も元曲よりエモーショナル成分増量、といった感じ。大橋さんは、そもそもKANちゃんとスキマスイッチのバラードがわりと似た空気感があるように思うのですが、「エキストラ」とかナチュラルに歌ってもスキマスイッチの曲みたいに聞こえる。どちらもとてもよかったです。
しかしやっぱり何と言っても藤井フミヤさんですよねえ……。SNS上でもそれはもうものすごい反響がありましたが。
これを書いているわたくしは学生(中高大)時代一番好きだったのはチェッカーズで、解散後もしばらくはフミヤさんのファンクラブに入っていた程度には好きなのですが(ずっと彼のライブに行き続けている古い友人に誘われて、最近またライブに行くようになりました)、それでも、彼の実力をまだまだ全然分かっていなかったのだと、衝撃を受けました。いや実はフミヤさんがKANちゃんの曲を歌うところがあんまり想像できてなかったんですよ。なのに、「世界でいちばん好きな人」は完全に自分のコンサートで歌うバラードそのものだったし(いつもライブでするように両手を広げて歌っているのを見たときに、この曲はフミヤさんの曲になったと思った)、和田唱さんと歌った「適齢期LOVE STORY」はすっかりロックになっていて「この曲こんなにロックだったんだ!」とびっくりした。
自分の世界に曲を取り込む力。そして曲に新しい輝きを与える力。散々聴いてきた曲が新たに「生まれ直す」瞬間を目撃した気がしました。
思えば、KANタービレの出演者はシンガーソングライターが多いんですよね。でもフミヤさんは自分でも作曲するけど他の人が作った曲を歌うことの方が多い(歌詞は自分で書くことが多いですが)。チェッカーズ時代はフミヤさん作曲の曲はインストゥルメンタル1曲しかありませんでした。「自分の中から生まれたものではないメロディ」を咀嚼して自分のものにしていく、という作業をずっとやってきた人なのです。そのことの意味を思い知らされました。圧倒された。
個々の曲については、全曲語れることはあるのですが、だいたいの曲が自分の過去の記憶と結びついているため、膨大な自分語りになってしまいそうなのでやめておきます。
ただ1曲だけ、「カサナルキセキ」。
この曲が発表されてからあと、KANちゃんのライブに行くたびに「シークレットゲストで秦さんが出てきてふたりで歌ってくれないかなあ」と思っていたのです。でも一度もなかった、どころかわたしが行ってないライブでもお二人で歌うことはついになかった。なのでこの曲をやると秦さんが言った途端たまらない気持ちになりました。とても好きな曲だから、KANちゃんが生きているうちに生で聴きたかった。
ふたりの歌詞も今となっては別の意味をもって聞こえてきて、この曲がいちばん直接的に響いてきた気がします。……でも、映像とだったけど、初めて聴けてよかった。
たぶんたくさんのKANちゃんファンが期待したであろう全曲つなげはやっぱりなかったですね。そりゃそうか、と。これだけの規模のライブを、選曲して歌を割り振ってリハーサルして、というだけでも大変なのに、編曲に時間もかかるしセンスも問われるしネタも差し挟まなきゃいけない全曲つなげをやる余裕は普通はないですよね。無い物ねだりだよなあと思いつつちょっとだけ残念でした。
あとこれは書いておかないと。
スタレビ根本さんには感謝してもしきれません。全編にわたる司会進行。KANタービレ全体を支える大きな柱でした。出演者が思い出話をしてもしんみりしすぎず逆にからっともしすぎずちょうどいい湿度感だったのは根本さんのキャラクターに負うところが大きかったなあと。
そして、最後の最後に根本さん自身が涙をこらえきれなかったことで、観客や出演者の胸の中にある悔しさや(運命への)怒りや受け入れられなさみたいなものが、存在を許されたような気がしました。悔しい気持ちを変に昇華しようとしなくてもいいんだなあと、なんでいないんだよ、って思ったままでもきっといいんだなあと。
また変な文章になったな、意味通じるでしょうか。
次はあるのかな、というのは当然気になるところで。KANちゃんファンと言えば、と言われて思いつく方で今回いなかったアーティストがいますし、もちろん今回は聴けなかった曲もたくさんあるし、KANちゃんの曲を歌いつないでいくためにも今回限りではなく続いてほしいなあという気持ちはもちろんあります。ただ今回会場の規模も出演者数も大きくなりすぎて、逆に続けて行くのがたいへんになっちゃったかな、とも思う。今回の発起人だった4組のみなさんにずっと負担をかけるのも違う気がするし。でもKANちゃんの名前を冠する(「KANだけに」)以上ある程度毎回凝ってほしい(笑)という欲求もあるので。
なので、毎年命日に、とかは言わないし、不定期シリーズみたいな感じで、小さめの会場で限られたアーティストでやったり、たまには大々的にやったり、すればいいんじゃないかなあと思います。生前のKANちゃんとつながりはなかったけど曲はすごい好きで!みたいな若い世代の方とかも出てきてくれると嬉しいなあ。どうでしょう。
で。
ここまで来て再び自分語りが始まるんですけれども。
KANちゃんがいなくなってしまったあと、そのことにツイートで触れたからか、わたしのタイムラインにもKANちゃんを好きな方々のツイートがいくつも流れてくるようになりました。
そして、わたしは皆さんのKANちゃんを思う熱量の高さとか愛情の深さとか行動力とかに、気後れしてしまったのです。
わたしはKANちゃん(に限らず好きなアーティスト全般)の情報をそこまで熱心に追う方ではなくて、だから好きな店とかもあまりよく知らなかった。そういうお店を訪れて彼の好きなメニューをいただくこともしないし、ヒルバレーのポップコーンはちょっと気になってるけどまだ行ってない。
何せ、KANちゃんがブログをやってるらしいことはどこかで読んだ気がするけどちゃんと読みに行ってなかったものですから、「ストキン」という言葉の意味も由来も知らなかったんですよ。いやひょっとしたらどこかで目にはしてたかもしれない、けど少なくとも覚えていない。金コラは読んでたけど全部ではなかったかも。
ラジオは気になってたけど放送局がエリア外なこともあって、radikoに課金してちゃんと聴くこともしなかった(たぶん地元のラジオ局で放送されてたとしても熱心なリスナーにはなってなかったと思います、録音はしたかもしれないけど。あらゆるコンテンツをため込んで消費しきれなくなる性分なので)。
わたしが彼のファンとしてやっていたことは、KANちゃんの曲をたくさん聴いて、カラオケで歌って、ファンクラブに入って、新しいツアーをやると聞けば東京公演のチケットは必ず取って行っていた、それだけでした。
劣等感、とまではさすがに言わないですけど、KANちゃんの足跡を追ったりしている方々に比べて、「ただ曲を聴いているだけ」のわたしがKANちゃん好きを名乗るのはおこがましいんじゃないか。みたいに、ちょっと、思ってしまっていたのです。
ただ。
「愛は勝つ」の大ヒットのちょっと前に(具体的には4枚目のアルバム「HAPPY TITLE -幸福選手権-」が出た頃に)KANちゃんと出会い、そこから自分の日々にはいつもKANちゃんの音楽がありました。曲の歌詞に自分の(若かりし頃の、だいたいは片想いの)状況を重ね合わせたり気持ちを投影させたり、曲によっては自分にはそんな経験はないんだけど漫画や小説を読んだときのように曲の主人公の気持ちを疑似体験したり、そうやって自分の血肉となった曲がたくさんあります。
KANタービレで、そんな記憶の引き出しがたくさん開きました。「君が好き胸が痛い」で泣いたのはどっちかというとあの曲で開いた引き出しの中身に自分で抉られてしまったからで。
わたしの人生や人格にKANちゃんの楽曲は分かちがたく結びついている。わたしの中にKANちゃんが作った歌った曲がたくさんあって、それらの曲は今日もこんなに豊かに鳴っていて、それでじゅうぶんじゃないか。わたしなりに、わたしのスタイルで、KANちゃんの曲を、ライブを、KANちゃんを、ずっと好きだったし、これからも好きでいる。
KANタービレをきっかけに、ようやく、開き直れた、というか開き直ることを自分に許すことができたのです。
「ロックンロールに絆されて」の歌詞を読んでいると、「わたしはあと何回ライブに行けるだろう」「わたしはあと何曲聴くことができるだろう」と思います。
KANちゃん以外にも好きなアーティストはたくさんいるし、ここ数年別の趣味もできてしまってそちらでもだいぶ時間を使うようになっています。
頭を使うときには歌詞のある曲を聴けないタイプなので、1日の中で歌を聴ける時間も限られています。
そしてわたしの人生も(今は高血圧ぐらいしか持病はないけども)この先どれくらいあるか分からないし、聴覚だけ先に衰える可能性も遺伝を考えるとそこそこある。
なので、KANちゃんの声を聴くたびにKANちゃんの不在を悲しむのではなく、耳元に今もKANちゃんがいてくれることを大切にして聴きたいと思うのです。
素晴らしいライブ、素晴らしい夜でした。
あまりステージが見やすい席ではなかったですが(なのでスキマ大橋さんのカツラキャッチを見逃しているし、最後にギターが割れる瞬間まで馬場さんのが例の嘘ギターであることにも気づいてなかった)、あの場所にいられてとても嬉しかったし楽しかったです。
ホストとなった4組のアーティストの皆さん、出演者の皆さん、ライブ開催に関わった全ての方々に、ありがとうございました。
そしてKANちゃんには、永遠のKAN謝を。