国勢調査100年 初回は平家の落人集落が見つかった!
国勢調査が大正9年(1920)の第1回調査以来、100 年の節目を迎えた。10月7日に回答期限を迎えた今回の調査は新型コロナの影響でインターネットによる回答が推奨されたが、回答率が低く、回答期限が20日まで延期された。
回答しない世帯には調査員が訪れ、虚偽の回答をすると罰金が科せられることもある。インターネットによる回答は思ったより簡単なので、早く済ませることをお勧めしたい。
遅れに遅れた第1回調査
国勢調査は“Population Census”の訳で、「国の勢い」ではなく、「国の情勢」を調べて知るという意味だ。「国勢」という言葉を用いて統計の重要性を最初に訴えたのは、早稲田大学創設者の大隈重信(1838〜1922)だった。
大隈重信(左)と寺内正毅(国立国会図書館蔵)
日本は明治35年(1902)に「国勢調査ニ関スル法律」を定め、明治38年(1905)に第一回調査を行い、世界人口センサスに参加する予定だった。しかし、その前年に日露戦争が始まり、莫大な予算が必要な国勢調査は実施が棚上げされた。
10年後の大正4年(1915)の調査も、第一次世界大戦の影響で流れてしまう。のちに岩手県知事や東京市長を務める内閣統計局長の牛塚虎太郎(1879〜1966) が、当時の首相、寺内正毅(1852〜1919)に「国勢調査実施ニ関スル件」という意見書を提出し、実施の必要性を説く。
「欧米諸国は前世紀のはじめから国勢調査を行っている。欧米諸国に伍していくには国勢調査の実施は必須だ。明治35年に国勢調査の実施を法律で定め公言しているのに、10年以上も実施しないとは、いかなることか」
牛塚らの尽力によって大正6年(1917)「国勢調査施行ニ関スル建議案」が衆議院で可決され、ついに大正9年の調査実施が本決まりになった。
国勢調査を推進した牛塚(左)と原(国立国会図書館蔵)
調査の重要性を知っていた原敬
幸いなことに、大正7年(1918)から約3年間首相を務めた原敬(1856〜1921)は、新聞記者だったころに国の統計担当者の地方視察に同行したり、その後外務省の書記官としてパリの公使館に赴任し、フランスの「1886年国勢調査(人口センサス)」の状況を見たりして、調査の意義を知っていた。
100年前の初の全国的な国勢調査、内閣統計局と軍需局を統合した「国勢院」の誕生、統計の充実を期すための中央統計委員会の設置は、すべて原内閣でのできごとだ。
ただ、原内閣で統計整備が進んだ背景には、日本の列強入りと大正デモクラシーがあった。第一次世界大戦に勝利した日本は、国防のための軍事費を増額し、軍需品の生産強化を進めていた。国勢院の設置には軍需局が内閣統計局の統計数字を使って生産計画を立てやすくする目的があった。
見送られてきた国勢調査が実施されたのも、「今後の戦争は陸海軍の動員のみでは不可能で、産業、国民を動員して国を挙げて戦う覚悟と準備が必要」という声が政府内で強まったことがある。
一方で原内閣の時代には産業の重化学工業化が進み、工業労働者が増えて労働運動も活発になっていた。労働運動に対応するには労働者の実情、特に賃金水準を把握しなければならない。国主導で産業合理化、能率向上運動が始まり、工場労働者の「賃銀」の決め方を出来高から時給に変える流れが進んだ。
第1回調査では個人がオリジナルの宣伝ビラを大量に作った(『大阪市第一回国勢調査記念誌』国立国会図書館蔵)
「一人も漏れなく、ありのまま」
第1回国勢調査は「一人も漏れなく、ありのまま」という前宣伝が浸透し、厳密に行われた。当時は、ふだん住んでいる場所で調査する現在と異なり、10月1日午前零時にいた場所で調べたため、旅行中の人は「宿屋」の世帯員としてカウントされた。料理屋も夕方には店を閉め、繁華街から人が消えたという。
あいにく調査の日は大雨で、台風で関東・東北地方は水害にも見舞われていた。原は日記に「国勢調査今夜実行なるが不幸にして大雨、困難事も多からんと思う」と記し、調査が失敗しないか心配していた。調査の後は「評議員を午餐に招き慰労をなしたり。始めての試みとしてはまず無難におこなわれたるなり」と胸をなでおろしている。
平家の落人集落、埼玉の山中に
埼玉県秩父郡の荒川水源付近では、36戸244人の平家の落人を祖先とする「無籍集団」が発見されたという話が残っている。住民が出向いてきた調査員に「今、源氏はどうしていますか」と尋ねたという話は後世の創作だが、未知の集落が発見されたというのは、調査が厳密に行われたことを示している。
原が東京駅で暗殺された翌年に国勢院は廃止されるが、大正12年(1923)7月から内務省が「職工賃銀毎月調査」と「鉱夫賃銀毎月調査」を始めた。ちなみに「賃金」は銀貨でもらっていた名残で昔は「賃銀」と書いた。「賃金」と書くようになったのは戦後のことで、金を「ギン」と読むのは賃金くらいしかない。
統計の重要性は浸透したか
原の肝いりで始まった国勢調査だが、国勢院は原が暗殺された翌年には廃止されてしまう。昭和に入って日中戦争が起きると統計は次第に調査を経ずに報告された数字によって作成されることになり、不正確で歪曲されたものになっていった。昭和10年(1935)の第4回国勢調査では調査項目も減らされている。
イギリスはドイツに宣戦布告した直後に人口調査や中央統計局の設置を進めたが、日本はアメリカに宣戦布告する前年に中央統計委員会を閉鎖している。
こうした「統計軽視」の傾向のまま日本は太平洋戦争に突入する。日本の統計制度は吉田茂(1878〜1967)が戦後に統計法を整備するまで先送りされた。吉田は自叙伝『日本を決定した百年』のなかで、マッカーサーから「日本の数字はずさんすぎる」と苦言を呈され、「戦前にわが国の統計が完備されていたらば、あんな無謀な戦争はやらなかったろうし、またやれば戦争に勝っていたかも知れない」と切り返したことを明かしている。