関東大震災から99年 知るべき教訓とは
10万人を超える犠牲者を出した大正12年(1923年)9月1日の関東大震災から99年。この震災では特に隅田川東側の江東地区、当時の本所区(現在の墨田区南部)と深川区(江東区北西部)の被害が大きく、両区での焼死者はあわせて5万人を超えた。このうち3万8000人が本所区横網の陸軍 被服廠(ひふくしょう) 跡で亡くなっている。
読売新聞オンラインのコラム本文
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政府の中央防災会議の専門調査会委員で、関東大震災の検証を担当した東京大学教授の鈴木淳さんは、地震からしばらくの間、江東地区が公的救護の“空白地帯”になってしまっていたと指摘する。なぜこんなことが起きたのか。今回のコラムはその点に焦点を絞った。鈴木さんのインタビューは「防災ニッポン」に公開した。
「防災ニッポン」鈴木淳・東大教授インタビュー
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翌日には民間人も甚大な被害を知っていた
当時の東京の行政機関は今の都にあたる東京府と15の区を持つ東京市が担っていた。皇居を守る近衛師団と、南青山(今の港区青山)に司令部がある第一師団が 衛戍(えいじゅ、駐屯)し、多くの兵営や衛戍病院(陸軍病院)もあった。警視庁の施設も多かったし、日本赤十字や大きな病院もあった。しかし、地震発生で鉄道や電信電話は不通になり、隅田川の東に行く橋の多くが崩落したことで、関係機関は被害の把握に手間取った。
2日朝になると、被服廠跡には親戚や知人の安否を心配した人々が多数訪れている。惨状を見て自宅に戻り、握り飯を持参して再び訪れた人もいた。2日には本所区役所の職員が東京市役所と赤十字本社病院を訪れて救助を求めているし、被服廠跡で救護活動を行っていた相生署も警視庁に被害状況を報告している。しかし、それらの情報は、すぐには江東地区や被服廠跡への救護部隊の派遣につながらなかった。
市は都心での対応に追われ、警視庁は庁舎が全焼
東京市は二重橋前や日比谷公園、芝公園で給水や乾パンの配布を行うなど、都心部などの救護活動に注力している。相生署の報告は被害の深刻さがわかりにくく、救護出動の可否の決め手となる負傷者の有無も伝えていない。しかも「午前10時頃両国橋が出火し延焼中」という誤報も記されていた。警視庁でも情報の真偽を確認すべきだったが、地震発生が土曜日で、多くの職員は帰宅してしまった。その後に庁舎が焼け、警視庁は偵察要員を出す余力がなかった。
「救護」より「警備」を優先させた陸軍部隊
東京に駐屯する陸軍の動きも遅かった。当時の軍には「各部隊は衛戍地を守る」という決まりがあり、江東地区は近衛師団と第一師団が救護や警備にあたることになっていた。ところが東京の部隊も都心の対応などに追われ、最初に江東地区に入ったのは千葉の部隊。しかもその任務は「救護」ではなく「警備」とされ、兵士たちは食料や救急機材ではなく、銃を担いで被災地に入っている。異例の命令が出た背景には、陸軍の指揮系統の乱れもあった。この詳しい経緯や震災直後の体制についてはコラム本文に記したのでお読みいただきたい。
復興予算はどう調達したか
コラム本文で書けなかったことに復興予算がある。東日本大震災では所得増税が行われたが、関東大震災の復興財源はどのように調達されたのか。
復興にあたった帝都復興院総裁の後藤新平(1857~1929)は東京市長や鐡道院総裁などを務め、壮大な復興計画を進めたことで知られる。
しかし、当時は地方議会の権限が強く、予算は議会を通らなかった。都市計画用地の収用については「銀座の大地主」と呼ばれた枢密院の重鎮、伊東巳代治(1857~1934)の猛反対を受ける。意外なことに、当時は財産権(私権)の制限に対する抵抗感はかなり強かった。後藤の青写真は後退を余儀なくされ、復興予算は当初の6分の1に削られた。
計画の後退で増税や国債発行による財源確保は不要となり、関東大震災の復興財源は基本的に財政剰余金で賄われている。第一次世界大戦後の好況による税収の自然増収で国には潤沢な内部留保があった。国は補正予算も組まず、剰余金の責任支出で済ませている。東京市や横浜市は市債を発行しているが、その額は小さかった。
2023年は関東大震災から100年の節目を迎える。はるか昔の話、とは言えない。首都直下地震はいつ起きてもおかしくない。関東大震災から学ぶことはまだ多いはずだ。
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