Taco de Tako (タコのタコス)
写真は最近我が家で人気のタコのサラダ、マリネというか.....「タコの新大陸風」と読んでいるが、メキシカンサルサにタコを加えたもの。作り方は簡単で
・タコ(蒸したもの)
・玉ねぎ(刻んで水にさらす)
・パプリカ
・香菜
※量は好みで適当に
あたりを刻んで
・塩
・ライム果汁
・クミンパウダー
※量は好みで適当に
と混ぜるだけ。お好みで
・パラペーニョ/青唐辛子(刻んでもペーストでも良い)
※量は好みで適当に
を入れると大変良いのだが、それより日本では
・柚子胡椒
を入れることをオススメする。
ライム果汁の香りで柚子の香りは全て吹っ飛ぶので妙に和風になることもなく、熟成した極上の青唐辛子ペーストと言った風情。辛味が爽やかで大変良い。トルティーヤチップスを添えて、軽めのビールと合わせてガツガツモリモリ食うのだ!オリーブオイルをかけると冷えた辛口白ワイン(安い新世界ワインがいい)にも合う。水気が多いので、焼いたトルティーヤで巻くのはちょっと難しいけど、それもまた美味い。タバスコも、万歳!
しかし、つくづく俺の好きな美味いもの、というのは全てコロニアルである。植民地主義と関係がある。今回の料理はメキシコインスパイアなんでそもそもだが、地中海域ヨーロッパ料理をレギュラープレイヤーの一つとして彩るトマトもトウガラシ/パプリカ類も全て大航海時代以降、新大陸からもたらされたもの。元来各種スパイスはアジアや中東域原産のものがほとんど。今回用いた「ライム+香菜+クミン」の完璧な方程式が新大陸でパラペーニョなどのパプリカ類とともに料理に用いられているのは、それだけで大航海時代の蛮勇やロマンと、植民地主義という人類の大きなカルマを想起させられる。
和食も例外ではない。最近国際語になりつつあるUMAMI(旨味/出汁)の王者カツオ節。あれが日常の庶民の味になったのはかつて大日本帝国が南洋植民地を獲得し、広大なカツオ漁場を手に入れてからのことであり、長い日本の歴史の中ではほんの最近のことであることはあまり知られていない(興味がある人は『鰹節と日本人』宮内泰介/藤林泰 岩波書店 参照)。いわんや砂糖をや。
もちろん搾取した側の飯が美味くなるだけでなく、フランスと関係が深い北アフリカ料理や、日本からトウガラシを得た朝鮮半島など、被抑圧者側が逆に攻め入った側や宗主国のもたらす素材やメソッドを巧みに取り込む強かさも散見できる。「食う/食われる」という生き物としてのカルマを「料理」という文化に昇華させた人類はつくづく生命の原罪や矛盾、力強さを複雑にブーストさせている。勿論、歌や器楽や踊りなどの芸能も同様だ。。。
ところでこのメキシコ料理。俺がその美味さや発想を直に体感できたのは、富山でのSUKIYAKI MEETS THE WORLDの仕事でのメキシコ人ミュージシャンたちとの自炊合宿(それこそ最後はキムチ・タコスとか食ってたがw)と、昨年の自身のバンドでのアメリカツアーでの経験が大きい。
友人にはよく「アメリカで零細ツアーミュージシャンや庶民が食える一番美味いものはメキシコ料理だった」と冗談を言う。いや、冗談というか、たぶん事実だと思うのだが…
他ならぬ、そのアメリカ
ここ数日、自作メキシカンを頬張り、ネットニュースを閲覧しているといわゆる「黒人市民」への差別的扱いを発端とした暴動の報道が流れてくる。
大局的にはコレもまた、大航海時代~から奴隷制を含めた植民地時代の人類の罪悪の遺恨であろうと思う。欧州移民問題や、彼らに押し付けられる『割りに合わない仕事』の上で成り立つ形骸化した自由主義や個人主義、さらにそこをブーストさせた新自由主義的な経済の問題まで含めて、西欧社会が第二次大戦後、ドイツや日本だけを十字架に掛け精算してこなかった様々な問題のツケであろうと俺は考える。
しかし何より違和感を覚えるのは、
自分を『良識ある白人』的な立場において『黒人差別』に憤ったり同情したり…はてには『意識の低い無知蒙昧な黄色日本人』をdisる事を自身のオピニオンにしちゃう人が多すぎだよなジャパン。
あなたは、俺たちは、誰?てのもあるし…何よりそれ、実は完全に現状の覇権構造を容認して阿っちゃってませんか?とか。日本人が、アジア人が、現状の世界でそんなに強者で抑圧者の立場にいると本当に思うのですか?とか。
闘うべきものは、意外と複雑だ。
こういうことを食事しながら語るには、娘たちはまだ幼すぎる。
手を合わせてから。黙々と食う。もりもり食う。命を、命の中の毒も栄養も文化も退廃も喰らう(範馬勇次郎のようにッ)。
和食をあまり好まない俺だが、日本式の「いただきます」と「ごちそうさま」は、やはりそれなりに心の救いである。
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