言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(九)丸山健二
人生の荒波を想い起こさせずにはおかぬ、大小の厄介な問題をその場しのぎのやり口でどうにか乗り越え、今年の庭もまたいかにもそれらしく見えてしまう絶頂期を迎えつつあります。年々体力が落ちてゆく高齢者らしからぬ奮闘の成果としては、まあ、まあ、こんなものでしょう。そう自分に言い聞かせながら嘘っぱちの満足感に浸ることにしました。
つまり、他人から見ればどこが面白いのかさっぱりわからない、あまりに地味であまりに労が多い力仕事の継続の結果が文字通り花開いて、作り手以外は理解しようもない、ときめきと呼べなくもない感動の端くれを、恩着せがましい植物群から授けてもらえたのです。一応はありがたがっておくべきところでしょうから、ここはそうしておきます。
主に亜高山地帯のさまざまな野生のツツジと、その変種、我が国固有のものと外国のものが配置されたシャクナゲと、その変種、ほかにお気に入りの木と草が多数。
それらの開花が複雑に絡み合って織り成す空間のど真ん中に八十年間生きた身をそっと置き、色とりどり、形状さまざまな花が奏でる、不協和音を多用した現代音楽的な交響曲に陶然となる数日間、意味深さに満ちあふれた世界は我が物と化し、というか、そんな大いなる錯覚に捉われて、「真の偉大さが誇る美とはなんぞや」と言う大仰な分だけ青臭い問い掛けの答えが眼前に展開され、自己満足の境地にぐいぐいと引きずりこまれてゆくのです。そんなときの私の顔はおそらく、らしからぬ柔和な笑みを浮かべているかもしれませんが、実際には、こびり付いた生活の垢のせいで微笑とは程遠い代物かもしれません。
しかし、そんなことはどうでもいいのです。精神の蟄居が突然解除されたかのような、あるいは魂の餓死から免れたかのような、そんなひと時に浸ることができれば、一年の苦労が報われたことになり、ひいては、未だ実現されぬ理想的な幸福の入り口に立てたのではないかという、まさにその一瞬を味わえるのですから。
骨の髄まで沁みていた悪しきものが、満開の庭に次々に吸い取られてゆくこの実感は、もちろん大いなる幻想にすぎません。それでもなお、咲き匂う千草の助力と相まって、ひょっとすると天国の花園とやらに勝てたのではないかと自惚れが恐れ気もなく発生します。
そんなとき、背後に投げかけられる視線をふと感じて振り返ると、タイハクオウムのバロン君を腕に止まらせた妻がガラス窓にべったりと顔を押しつけていました。
「時は常に朧なり」と唄っているのは白系の花です。
「つたなき運命も努力次第」と力説しているのは赤系の花です。