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「そうです、馬鹿なんです」言の葉便り 花便り 北アルプス山麓から(四十一)丸山健二

 八十歳を超えて不思議に思うことがあります。

 覚悟していたにもかかわらず、寿命の短さを痛々しいまでに自覚する瞬間がまったくないのです。若かった頃と同じとまでは言いませんが、やはり未だに時間の感覚が永遠の位置に留まったままなのです。

 これはいったいどういうことなのでしょうか。曲がりなりにも健康体を保っているからなのでしょうか。そんなはずはありません。風呂へ入るたびに慢性的な膝の鈍痛が再認識され、鏡を前にするたびに皺と染みが増えていることを思い知らされます。老化が急速に進んでいることは厳然たる事実なのですが、なぜか落胆や失望のたぐいに見舞われることがないのです。どうやら妻の認識も同じようです。

 子どもがいないからなのでしょうか。ために、生々しい加齢を自覚できないのでしょうか。それも確かにあるかもしれませんが、すべてとも思えません。

 世間一般の暮らしを送っていないせいで、歳月の捉え方が大幅に狂ってしまったのでしょうか。もしそうなら、願ったり叶ったりのいい事です。

 さもなければ、これはあくまで自分勝手な解釈なのですが、多くの草木と共に命を日々積み重ねていることから発せられた僥倖かもしれません。その意識はなくとも、実際には花々から何かしら好ましい影響を受けてこうした能天気に浸っていられるのだとしたら、言葉は悪いですが、儲け物です。

 当然ながらそういつまでもつづくことはないでしょうが、ともあれ今はこうして生きているのです。そしておめでたいことに、数十年後の庭の設計を本気で考え、生育が極めて遅い苗木をどんどん購入しています。この春にもまた、三十センチにも満たない接ぎ木のマグノリアの仲間を取り寄せて植えました。そしてその花が満開になる将来を本気で想像しているのです。

 文学作品においてもそのありさまです。これが最後と思って書き上げた作品を前に、もう次の執筆に入っているのです。その勢いを中断させ、中止させる条件が見あたりません。いい人生と言えばそうなのでしょうか。

 植えたばかりの〈ブータンルリマツリ〉が、「満開を期待していいぞ」と約束ました。

「それまで何年でも待ってる」と私はあっさり安請け合いをしました。

 するとタイハクオウムのバロン君が、「馬鹿か、おまえは」と、すかさず横槍を入れてきました。

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