【第3話】 よい一日を!
高校最後の空手の試合を引きずって、大学入試はその一校と滑り止めを残して全滅だった。通うことになったのは東京郊外にある桜美林大学。JR横浜線・淵野辺駅からバスで15分ほど行った先にある。自宅から片道2時間。これを4年間続けられるか気にかかったが先のことは考えないことにした。ほかに選択肢もない。大学に進学した目的はひとつ、教員免許を取ることだった。中学生のころに「教員になる!」と意気込んだ熱量はまだ残っていて、このころには教員を将来の職業として意識しはじめていた。科目は英語を選んだ。大学3年の夏からアメリカに交換留学することを決めたのは、多少は英語が話せたほうがいいだろうという程度の理由で、一年あればその目的は果たせると信じていた。
英語は中学・高校と合わせて6年も勉強している。だれかと英語で会話をしたことはないが、アメリカに行きさえすれば6年間の蓄積が芽を出すものだと思い込んでいた。この留学のために母に買ってもらった特大サイズのスーツケースにリュックを背負って、箱根旅行にでも行くかのような気軽さで出発した。最初の関門は乗り換えのために降り立ったシカゴ空港。荷物検査で持ち物をX線に通したら、体格のいい黒人のおばさん検査員に進路を遮られた。私に向かって何かを言っている。注意されているようだがわからない。言われたことを頭のなかで反芻するも、ひとつの単語も引っかからない。曖昧に返事をしてキョロキョロしていると、おなじことをもう一度言われる。もちろんわからない。おばさんはイライラが怒りに変わったらしく、ジェスチャーがどんどんおおきくなっていく。怖い。何かを指さしている。リュックか。リュックがなんだ。何度わからない素振りをしてもおなじ速度でおなじフレーズを繰り返す。最終的に、"Do you speak ANY language?"(あなた何か話せる言語ないの?)とかろうじて聞き取れた。怒っていると皮肉までちゃんと伝わるものだ。コミュニケーションにおいて強い意志って大事だ。私はちゃんと意気消沈した。根拠なくあった自信はすっかりしぼんだ。リュックに入ったまま荷物検査に通したノート型PCを取り出すように言っていたようで、おばさんはおおげさにため息をついて勝手にリュックを開け、PCを引っ張り出した。雑にトレーに置いてX線に通したうえで、ぶっきらぼうに"Go"と顎でしゃくった。そうして私はアメリカに入国した。
ノースカロライナ州・ノースカロライナ大学シャーロット校(University of North Carolina at Charlotte)。図書館はお城みたいに立派で、テニスコートはざっと10面はあり、大学の端から端まで車がないと移動しきれない。ジョギングをしている人や芝生でフリスビーをしている人もいる。前にいた世界より何もかもがひとまわりおおきい。キャンパスのまんなかには教室のある棟、カフェテリア、図書館が集まっていて、それを取り囲むように学生寮が配置されている。学生寮はマンションのような縦長の建物もあれば、キャンプ場のバンガローのような木造のものもある。私が暮らすのはバンガロータイプの寮。マーティンヴィレッジ(Martin Village)という名のとおり、森のなかにバンガローがいくつも建ち並ぶちいさな村のようだった。建物の1階と2階にそれぞれ2部屋ずつ、1部屋には4人がルームシェアする。私のルームメイトは、黒人のジャニスとモニック、白人のビアンカの3人で全員がアメリカ人。海外生活はおろか一人暮らしさえしたことがなかったが、はじめてのルームメイトたちはとても親切だった。英語がつたない私に、彼女たちのことをわかるまで繰り返し教えてくれる。モニックとビアンカは幼馴染で、モニックにはブランドンという彼氏がいて、ジャニスは卒業したら故郷のニューヨークに帰るつもりで、ビアンカの車はもう何度も壊れているらしい。
大学の授業よりも日常会話のほうがはるかに難しいのは予想外だった。予測ができる授業の内容とはちがい、友だちとの会話は何が飛びでてくるかわからない。会話のテンポも重要だ。ユーモアや笑顔も交えないとつまらない人だと思われてしまう。しかしそのすべてに気を配る余裕などない。とにかく場数を踏むことが必要だった。遊びの誘いには一も二もなく、Yesと言うことにした。
アメリカの大学生はよく勉強する。平日は夜遅くまで図書館にこもる学生も多い。テスト前は図書館が24時間開放されるので、徹夜もザラだ。その代わり金曜日と土曜日の夜はしっかり遊ぶ。そして日曜日の夜からはまた平日のルーティンに戻る。私は平日だろうが構わず誘われるままに出かけた。一年という限られた時間を有効に使うべきだ、これでいいんだという気持ちと、せっかく留学をさせてもらって勉強もせず遊びほうけている後ろめたさとが拮抗していた。
ある朝、自室を出たところでルームメイトのビアンカに出くわすと、開口一番「おはよう。昨日は帰りが遅かったでしょう?」と言われた。しまったと思った。彼女らは夜な夜な勉強しているのに、私はそんな努力の裏で遊んでいたことを悔いた。ちいさく「ごめん…」と言うと、彼女は「なんで謝るの?」ときょとんとした。「毎日あなたに会いたい人がいるってことでしょう? それは素晴らしいことじゃない?」とさも当然かのように言い、いつものように”Have a good one!" (よい一日を!)と出かけていった。
ビアンカはだれに対しても分け隔てなく優しくて、いつも機嫌がよくて、そして週末が来ると友だちをたくさん呼んでリビングでマリファナを吸う。煙で部屋が真っ白になるくらい吸う。2週間に一度は「ミク、私きょう裁判所に行くの」と言った。理由は未成年の飲酒やマリファナ、交通違反だ。ビアンカの車はしょっちゅう壊れていたから、その頻度で裁判所まで出かけていくのは大変そうだった。毎週ちがう男を部屋に連れ込むので、週に一度は「はじめまして」と挨拶しなければならず、おかげで自己紹介にはすっかり慣れた。
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