それは、渇望。きっと、本能。
MacBook Airのブラウザの、いくつも開かれているタブの一つに「検索ワード:書くのがしんどい」がある。書くのが苦手だけどどうしても書かないといけない状況の人が入力しそうなワードだが、書くのが好きで、馬鹿みたいに書くことを仕事にしてきた人間のパソコンだ。
だから検索結果に並ぶ「こうやったらうまく書ける、苦手意識克服!」みたいなアンサーは解にはならず、同時に「好きだけど辛い」という面倒なやつの答えはネットの海には存在しない。あったとしても、どうやったら検索結果に出てくるのやら。でも、この正直な気持ちを宿主が無視してはいけない気がして、タブはいつも閉めることができない。
特別な才能も、特別な環境も、何も持っては生まれていない。ただ何かを体験し、知り、最高に心躍る瞬間と「書きたい」という思いは不可分で、理屈を超える。書くことが心に重くとも、源泉すらわからない「書きたい」という想いに、今日も私は目を逸らせない。
思い悩んだり、体調が悪かったりして、思うように書けなくなる時がある。また環境が書くことと向き合わなくさせることもある。
書くことを生業にしている自分にとって、これは由々しき事態であり、一過性のものならまだしも、抜けられない迷宮に迷い込んだように途方に暮れる、そんな真空状態が、ある。
書くことが好きなはずなのに、覆いがかけられたような、逃げ出したくなる恐れ。焦り、憤り、途方に暮れ、かと言ってそれで何かが前に進むわけもなく、無意に過ぎる時間。
天職だと思ったこの仕事は、やはり自分の思い過ごしだったのではないか。「好き」はただの自己のワガママなだけではないのか。そもそも向いていなかったのではないか。そんなことを考えている暇があったら、目の前の原稿を進めないと…焦れば焦るほど、あがく指先は空を切る。もがく体は虚無をさまよう。引き続きただただ、時間だけが無意に過ぎていく。日が暮れる。日付が変わる。変わらないのは、テキスト用のアプリケーションの画面と呆然としている私の姿。
ふと思う。書くことを手放し、誰の迷惑にもならず、心が静かに穏やかになる生き方、そう、ただ焚き火を眺めてその炎に魅了され、心を自然に委ねる人生はないのだろうか。もうこの自分で自分をコントロールしきれない心の波も、周りとの関係性も、書くことを諦めさえすれば、スムーズにいくのだと思うに至る。
思い返せば、修行時代からそうだ。書くことを諦めればあんなに泣いたり、苦しんだり、不眠不休で仕事をすることはなかった。去らずにいてくれた友もいたはずだ。もっと友達と遊んだり、旅行に行ったり、人生に幸せを噛み締める時間をもたらすこともできたはずだ。
自然の中で焚き火を囲んだ記憶は一度だけ、友達が連れて行ってくれた今のところ人生で最初で最後のキャンプだが、眠くて早々に私は離脱していた。焚き火は、いつまでも見ていて飽きないものらしい。
これだけ20年ノンストップで走り続けてきたんだ。そうだよ、そろそろ焚き火を眺める人生、いいじゃないか。41歳、異業種に馴染めるかはわからないけど、夢とか持ち過ぎなければ、丁寧に幸せを汲み取れるんじゃないだろうか。
新卒時代、思いのある2社だけ、書くことと無縁の会社にエントリーした。それだけ、内定と最終選考まで行った。でもどうしても、書かない世界に勤めることを選べなかった。まったくもって失礼である。自分でエントリーしたくせに。
書くことを基準に何社か経験してきた。転職の空白期間、書く仕事が見つからず、違う仕事を考えようと思ったけど、何一つ思いつかなくて、自分はバカなんじゃないかと思った。この世には書かない仕事の方が何万倍とあるはずなのに、蜃気楼のように、私には見えているようでいて掴めない。半ば敢えて掴もうと意識の手を引っ張っていっても、掴もうと握った手は空を切る。少し愕然としたあの時の衝撃が忘れられない。
多分、書くことさえ諦めれば、もっと人生はスムーズなんだと思う。余計に傷つくこともない。
焚き火を愛でる時間も、包み込む空気も、耳に届く自然の音も、きっと最初は落ち着かないだろう。でも、落ち着くようになった時が、本当にその豊かさを享受できた瞬間なんだろう。
想像するだけで、静かに心が高鳴る。
そして想像するだけで、分かる。
焚き火を見つめて湧き上がる感情、目に耳にする薪や炎の光景、頬を撫でる空気の温度、頭上にきらめく無数の星、暗闇への恐怖、その全てを、私は、きっと書き記そうとするだろう。