姫のキス・裸のハグ
【理屈人間】
「オタクの本質」を乱暴に言うと「こだわりが強い理屈人間」だと思う。
もちろん「オタク」には様々な側面があるのでこう言い切るのは乱暴だけど「理屈で生きてる」ってのはまあ間違いではないだろう。
そしてそれは「男という生き物」の本質でもある。
もちろんそうじゃない男もいるのだけど、男はとにかく「整合性」が好きだし「理論的」「科学的」ってのが偉いと思っていて「気分」や「直感」で判断する人を見下す傾向がある。
なぜそうなのか?
おそらくは「不安」なのだと思う。
無条件に信じられるものもなく、自分自身にも自信が持てない。
つかまる所がないまま彷徨うのは怖くて「何かしらの理屈」にしがみつくしかない。
これが宗教の強い環境で育った場合、男であっても「絶対的な神」に身を委ねられる。
「尊敬できる強い親」がいる場合も同じだろう。
要するに日本的な「信じられる神や親がいない社会」では「理屈」に頼るしかないのだ。
今週紹介した漫画「プラネテス」はそういう「宙に浮いた男」の物語だ。
圧倒的な画力と緻密な取材で、この作品は「かなりのリアリティ」を感じさせる本格的SFに見える。
ところが実際は情緒的で整合性は2の次になっていて面白い。
月で怪我した仲間を運ぶシーンでは、主人公は仲間を背負って苦しそうに月面を歩くのだけど、考えたら月の重力は地球の6分の1なのであれほど「重い感じ」にはならない気がする。
でもそれを描いてしまうと、ここで表現するべき「何かを背負って進むと未知の世界と出会う」というテーマが霞んでしまう。
この作者はかなりの理屈人間に見えるようでいながら「伝える事」を優先しているのだ。
【正義を超える正義】
印象的なのは「テロリストの正義」と「主人公の正義」がぶつかり、テロリストに銃を向けた主人公(ハチマキ)がテロリスト(ハキム)を殺そうとするシーンだ。
格差社会と環境汚染を生み出す「開発」を止めようとテロを起こすハキムと「その先」を目指しつつ「開発が生み出す危険なゴミ(デブリ)を処理している主人公の対立だ。
それぞれに納得の行く「正義」があり、この対立を避けるのは難しい。
そしてその時2人の側にいた女「タナベ」が主人公に唐突に「キス」をする。
その瞬間、まるで呪いが解けたかのように主人公の「殺意」は消える。
タナベを育てた(義理の)両親は団塊世代のヒッピーカルチャー(ロックと風)の人達だ。
設定は近未来ではあるけれど、この「キスで平和をもたらす女」はまさに「団塊世代(愛と平和の世代)」の子供である。
「戦争よりベッド・イン」
これぞまさに理想の団塊Jrだ。
【裸のハグ】
プラネテスでは「でかい夢」にすがりながら虚空を彷徨う「独身男」の孤独が後輩の女の子の「理屈を超えたキス」で救われる。
それでも「虚無」と「闇」に飲まれていく主人公は、今度は「同僚の女」に救ってもらうことになる。
同僚の宇宙飛行士「サリー」は「こういう時はこうすればいいんでしょ」と言いながら服を脱ぎ全裸で彼を抱きしめるのだ。
完全に武装解除した女のハグだ。
孤独な理屈人間もこれには勝てない。
あらゆる「理屈男」がこれを望んでいる。
こじらせているので「僕は違いますよ」とか言うだろうが本心では望んでいるのだ。
【理屈女が待っているもの】
この話は男に限った話ではないとも思う。
色々と不安な女性が「理屈」で武装するのもよくあるパターンだ。
女性向き漫画ではこういう「理屈で武装しつつ、湧き出す情念に混乱してしまう女」が出てくる。
そんな混乱した理屈女に「肩幅の広いメガネ男」とか「普段は冷たいハイスペ男」とかそんなのが現れる。
彼らは混乱した理屈女を後ろからハグして「そのままでいいよ」なんて言うのだ。
ここでの言い方は色々あるけど、つまりは「君を全面的に受け入れるよ」という「理屈なき(条件なき)愛」を男は与えるて物語は終わる。
「受け入れて欲しくて泣いてる」ってのが現代人の正体だ。
【この世のすべてを愛する】
プラネテスで主人公(ハチマキ)を救った「タナベ」はどういう女性かといえば、おそらく「この世のすべてを愛している人」だろう。
そんな人実在するのか?
それを考えていたら思い当たる人達がいた。
この世の中には「蜘蛛やムカデ」なんかを研究している女性もいる。
彼女たちのドキュメンタリーを見ると「蜘蛛やムカデも愛おしい存在だ」とか言って触ったりするのだ。
正直僕はそこまでのレベルにはなれないけど、毒にさえ気をつければそれなりに近づけるし、彼らの緻密なデザインをした姿を「美しい」とも思う。
おそらく多くの「蜘蛛やムカデ研究」をする女性は人生の初期段階で「蜘蛛は醜い」とか「気持ち悪い」という観念をインストールされなかったのだろうと想像する。
僕の友人に犬が嫌いな男がいる。
彼は子供の頃母親に「犬は噛み付くから危ない生き物だ」と何度も言われたらしい。
「勝手に外に行くと犬が出るよ」と言われて育ったのだ。
犬好きの僕からすると気の毒でならない。
ほとんどの「不安」はこんな風に刷り込まれた「幻」だと思う。
犬とは親友になれるし、外に出て犬に殺される事はほぼないのだ。
困った事に、意味なく刷り込まれた「犬は危険妄想」の「犬」は時に「外国人」になったり「あの地域の人達」や「あの職業の人達」みたいにもすり替わる。
「あいつら」という「幻」が生まれ、それが不安を生んでしまう。
そんな風にして世の中は「嫌な感じ」になっていくのだろう。
僕は「外には怖い犬がいる」ではなく「怖がっている犬がいる」のだと思う。
「怖がっている犬」って何だ?
それは「自分の事」かもしれない。
・・なんだか話がややこしくなってきたので今週はこの辺で。
どうか今週もお体を大切に。
山田玲司
メルマガ 2022・2・13
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