口の立つやつが勝つってことでいいのか
私は口が強い。会議でもよく発言するし、「なるほど」とよく言われるし「話しうまいですね」と言われることも多い。
言わないと伝わらない。と信じて生きてきたし、言語化できるから周りからも理解されてよい人間関係がつくれると思ってきた。
しかし、その考えが裏目に出て仕事で揉めてしまった。さらにあちこちに飛び火して説明するほど私は追い込まれた。オセロのようにどんどん裏返っていく感覚を覚えている。
なんでこうなったんだろう。言わなきゃ伝わらない。だからもっと言語化しなくちゃ。でも、言語化が今回の飛び火の原因でもある。もやもやしていた。
もやもや状態で本屋をうろついていたとき目に止まった一冊。
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タイトルを見て衝撃をうけた。
たしかにコミュニケーションやモテるための本を読んでいると「黙ること」「喋りすぎないこと」が大事とされている。自分自身10年近くコミュニケーションを勉強してきて黙ることに行き着いた。
その反面言語化一本槍に違和感を感じていた。その矢先に「口の立つやつが勝つってことでいいのか」というタイトルを見たからそりゃもう衝撃をうけた。
おそらく大勢の人が感じていたであろう、口の立つやつが偉いの?という疑問に著者なりに向き合った一冊「口の立つやつが勝つってことでいいのか」を紹介したいと思う。
ひろゆきみたいになりたい!と思っている人こそ読んで頂きたい一冊。言語化できるからこそもったいなく、言語化できないからこそ贅沢なんだと感じてもらえたら嬉しく思います。
言語化することのっもったいないさ
言語化が苦手という人たちにとって憧れでもあり、毛嫌いの対象でもある言語化がうまい人。
会議でも理路整然と自信ありげに喋りつい聞いている側は納得してしまう。まさにできる人という印象そのものではないだろうか。さらに「こんなふうにはなれないなあ」と後ろめたさも感じるのではないだろうか。
私はその後ろめたさを感じさせる側の人間だ。だが既出のとおり自分の言語化に違和感を持っていた。その違和感はエックスへの投稿を通じてさらに強くなる。
あとの話しのため、私がどのように投稿内容を作っているのか説明したい。
私が投稿するときはA4の紙に思いついたことを片っ端から書いていく。
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びっしり書いたところで、言いたいことに近い部分だけを残す。
例えばAI関連の本を読んで、AIがどう便利なのか?を伝えたいとする。となるとAIができることを残して、難しい技術的な単語とその説明は省く。というふうに自分の伝えたいことと遠い部分は省き、より近い部分は残していく。
ここから残った言葉を言い換えたり、並び替えたりして文章を作る。ここで作った文章は140文字の制限関係なく作っているので、さらに言い換えたり並び替えたりして投稿できる文章が完成するのである。
おわかりだろうか。2度文字を大きく切り落としているときがあるのを。
遠い部分を省くとき、140文字以内にするときに感じた事を大きく切り落としている。
この切り落としている部分には本筋とは違うが、すごく本質的な言葉だったり面白い言い回しだったりと娯楽要素のある言葉達がある。この部分が伝えられずもったいないなといつも思う。
著者も同じような気持ちを作中で表現している。
言語化するというのは、たとえて言うと、箸でつまめるものだけをつまんでいるようなものだ。
スープのようなものは箸ではつまめない。
そういうものは、切り捨ててしまっているのだ。
だから、じつはスープがたっぷり残ってしまっている。
ほんとうにこの通りだと思った。
マグロだったら大トロだけ残してすべて捨てているようなものだ。赤身も中トロもカマも美味しいのに捨ててしまっている。なんてもったいない!
SDG'sの目標のなかに「つくる責任つかう責任」という目標がある。この中には言葉をつくる責任つかう責任も含まれているのか、お手隙の方はユニセフに問い合わせて頂きたい。
もし含まれているのなら「さすが国際機関!」と延々称えるメールを贈ろうと思う。
まとめ
読了してスタバでこの記事を書いている。書いていて思ったことがある。
結局、言語化じゃね。
想像してみてほしい。言語化がテキトーになったら「今期の業績はぐわーってかんじ」と会議で言われるのだ。部下も株主も最悪である。
口コミでも「会議で擬音が使われる会社。まじやばあい」と具体と抽象の言葉を使って書かれるのだ。
言語化テキトーまじやばあい。
じゃあ、「口の立つやつが勝ちってことか。なんだ結局おれらは日陰を歩くのか」となるのはまだ待ってほしい。
たしかに言語化できるに越したことはない。自分の考えをわかりやすく伝えてくれるのなら、周りの人たちはどれだけ助かるだろう。当人もどれだけスッキリするだろう。
だが、ここまでの言語化を身につけるには地道で長い時間が必要となる。身につけたとしても上位互換はたくさんいて、上位互換を見るたびにちょっと落ち込む。
いち言語化ができる人間としてひとつ言いたいことがある。それは言語化にも種類があるということだ。
私の場合は説明の言語化がうまい。会議などで自分の考えを突飛な切り口で説明するのが得意だと思う。別の人は洗濯機の説明すらできないが質問の言語化が得意だ。とにかく私の説明に対してしぶとく質問を繰り出してくる。著者の場合はたとえの言語化だと思う。スープのくだりなどまさにそうだ。
これらと同じように「抽象化する言語化」があってもいいと思う。これはみんな意図せずやっている場合がある。日常でこんなシーンをみたことはないだろうか。
このあいだ、映画見てめっちゃ泣いたの!やばっかった!
(そうなんだ!どんな映画なの?)
すごく辛いことが起きてヒロインがくじけちゃうんだけどそれでもがんばるの!
聞き手としては情報が少ないが、ヒロインの頑張りが泣くほど印象的な映画。ということは伝わる。ヒューマンドラマが好きな人にはこれだけで十分興味ある情報になるだろう。
想像してほしい。この言葉を実際に友人から言われたとしよう。スープがたっぷりではないか。なみなみのスープから湯気がたっているのが想像できる。
つまり私の言いたいことは「みんな何かしらの言語化スキルを身につけている」ということ。
だから、説明ができる人は具体的になりすぎて話が長いので、抽象化できる人にまとめてもらい、たとえができる人は伝わりづらいことがあるので質問できる人にテーマとの紐づけを手伝ってもらえばいいのだ。
口の立つやつが勝つのではなく、それぞれ口の立つステージがある。そのステージでぞんぶんに喋ったらいいと思う。
これからは相手が苦手とする言語化ジャンルを話そうとしてるときは、「とりあえず喋ってみて。こっちで汲み取ってみるよ」といっしょに言語化するスキルを磨いていこうと思っている。
最後まで読んで頂きありがとうございました。
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