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兄弟間格差の話

私は、自分の親にあれも買ってもらえなかった、これも買ってもらえなかったという記憶が強いです。
大人になってから自分のお金で買ったものもあるし、子供の頃欲しかったけど今は持ってもしょうがないなぁ!とか、もう手に入らないんだよなぁ!というものもたくさんあります。
可愛い子供服とか、お飯事の道具とか、子供の頃流行っていたものとか……今手に入れてもしょうがないけどあの頃に戻れるならもう一度宝物にしたい、というもののことをよく思い出します。

習い事の話

我が家は、金銭的には特に困ったことのない家でした。
両親ともに実家が太く、父は医者で母は音楽家を志しつつ育児中の専業主婦という環境で育っています。
父は、教育に関して押し付ける必要はなし、子供が興味を持ったことはとりあえずやらせてみればいい、必要な金は稼いでくるから……という教育方針だったらしく、兄妹三人で習い事をやったりやめたりしていました。

覚えている限り一番初めにやった習い事は、通っていた幼稚園の体育館で放課後に週一で開催されていた体操教室で、多分兄がやってみたいと言ったので私も一緒に放り込まれたものでした。
私は当時体を動かすのがわりと好きで楽しく通っていた気がします。
兄は喘息持ちで、当時は喘息は虚弱だからなるもので運動して身体を丈夫にすれば改善すると言われていた時代らしく、身体を丈夫にする運動ということで、幼稚園の敷地内で行われていた教室に通うことにしたようですが、半年目くらいの多分秋か冬に入った頃喘息の大きい発作でしばらくお休みをせざるを得なくなってそのままフェードアウト。
お迎えに来る母の都合があるので私も自動的にフェードアウトしています。
どうして体操教室に行けないの、私は元気なのに……と母に訴えて、お兄ちゃんの気持ちを考えなさいと叱られたことをよく覚えています。

その次の年にスイミングスクールにも同じ理由で通ったんですが、やはり喘息の発作がおこって兄が休会、私も一緒に休会しました。スイミングはどちらかという苦手だったので、通わなくて良くなってホッとしました。
その後小学校に上がり、兄は運動系の習い事をもうやらなくなりましたが、私はお迎えがなくても一人で路線バスに乗って帰宅することができるようになったので、幼稚園の空き教室でやっていたバレエ教室に通うことになりました。
兄と一緒に放り込まれたわけではなく私が自発的に初めてやりたいと言ったのがバレエだったわけですが、これは母がクラシックバレエを鑑賞するのが好きで時々公演に連れて行かれていたり、ビデオをみたりしていたのがきっかけで、私が憧れたのはわりと正統派のクラシックバレエなのでした。
いっぽう、通うことになったバレエ教室はどのつくモダン系統の教室でした。
小学校に上がったばっかりの私にはそれはわからなくて、なんか違うけどこれは私がまだちっちゃいからかな、大きいクラスではもっと舞台で見るような踊りをするのかなと思いつつバレエというよりはリトミックに近いような教室に黙々と通っていたわけですが、一年をすぎた頃、発表会があるということで、教室の先生と同派の教室が5つか6つ合同の発表会に出演することになりました。
で、合同練習があるというのでいつも通っている幼稚園とは別のところにあるレッスンスタジオに何度か通ううちに、私と同じくらいかもっと小さい年齢の子もクラシックバレエをやっているということに気付いてしまいました。
母に「私がやりたいのは今習っているようなやつじゃなくてあの子たちがやっているような、舞台で見るようなやつだ。教室を変わりたい」と訴えたのですが「ここまではバスの乗り換えが何回もあって一人で来るのは無理」という理由で却下されました。
いろいろと交渉してみたのですが、結局無理としか言われず、通っていたモダンバレエ教室は発表会の後やめました。
私が通いたいというから行かせてやったのに何年もせず辞めるなんてとずいぶん叱られました。私がやりたかったのはクラシックバレエで、この教室とは違うと言ったけど母にはピンと来ないようで、病気でやむなくというわけでもないのに辞めるということについてすごく渋られました。
子供の頃は意識してなかったけど、裁縫が得意ではない母が発表会の衣装は保護者が作るというルールのために四苦八苦して衣装を作ったりした後だったので、辞めるなら発表会前に言えという意味だったかもしれません。

小学校高学年のころ、兄妹三人揃って家から徒歩距離にある子供向けの絵画教室に通っていました。
兄は中学生になってコースを代わり、油絵を描き始めたんですが、油の匂いが苦手て喘息が出そうになるという理由で半年くらいで辞めました。
私はむしろその油の匂いが好きで、油絵の技法も好きで、兄が使っていた画材もあるのだから中学生になったら油絵コースに変わりたいと希望したのですが、なぜか私はアクリル画のコースになっていました。
兄と一緒に暮らしていたら、喘息の引き金になるかもしれないからダメと言われても納得したと思いますが、兄は絵画教室を辞めた直後に別居していた父と暮らすために家を出ていって画材を置いたまま居なくなっていたので、なぜ勝手にアクリル画コースにされたのか今もって意味がわかりません。(月々の月謝は2倍違って、油絵は高かったのは知ってます)
アクリル絵具でも油絵みたいに描くことはできるよ、と母も先生も言いましたが、教室でやるのはまず水彩画の延長線的なアクリル絵画で、何枚描いてもメディウムを使って油絵具のように厚塗りするやり方の日が来ることはありませんでした。
アクリル画を続ける意思がないので教室を辞めたいと母に相談しましたが、妹を毎週連れて行って帰ってくる人間が必要なのでダメだと言われて、楽しくない教室通いを続けました。
そのうち、家庭の事情で転居することになって、絵画教室も辞めることになりました。妹はずいぶんごねていて、引越しをしても教室には通いたいと言っていましたが、私はアクリル画コースに未練がなかったので自主的にではなく辞めることができてホッとしていました。

私は、習い事は全て兄のおこぼれもしくは妹の引率で、唯一自分で希望したバレエは希望とは似て異なる教室に入れられて、本心から楽しんで通っていた体操は兄都合で辞めさせられてしまったし、自分の希望が叶ったことは一度もないという認識なのですが、母からすると「習い事は好きなことを色々やらせた。送り迎えが大変だった」のだそうです。
バレエ教室に関して大人になって正しい説明ができるようになってから、母もバレエを知らないわけではないのになぜクラシックの教室を探してくれなかったのか、あの教室がモダン一辺倒であることはわかっていたはずだと聞いたところ、「探すのも送り迎えも面倒くさかった。幼稚園の教室なら迎えが遅くなっても園内で待たせることができるし場所も調べなくて良いので楽だった」ということを白状しました。
ちなみに、幼稚園、小学校と一緒で行き来があり親同士も顔見知りだった幼馴染みの何人かはクラシックバレエ教室に通っていて、教室のマイクロバスの送り迎えがあったそうです……その人たちに尋ねればよかっただけやろ

プレゼントの話

兄と私と妹は、兄と妹が4つしか離れていない団子三兄妹なので、人からプレゼントをもらう時はおんなじものの色違いとか、三つ組のものを渡されて兄妹で分けてねと言われることがよくありました。

兄は長子なので真っ先に青とか緑といった男の子カラーのものを取ります。優先権は兄にあると誰もが思っていました。

妹は自分の思い通りにならないと泣き叫ぶので、次にピンクや赤を取ります。二番目に取るのが自分の権利だと信じて疑っていなかったようです。

私は残り物の黄色とか黒とか緑とかを引き取ります、欲しくなくてもそれしか残っていないのでしょうがないのです。

母方の親類からのプレゼントにその傾向が強く、一度祖母にお礼の電話をかけろと言われて通話を繋がれた電話口で「私は黄色とか緑が好きじゃないので、何か買う時は赤二つと青とか、青二つと赤とかにしてほしい」と言って、母に痣になるほど二の腕を抓りあげられたことがあります。
母は叩くとかそういうことは滅多にしなかったけど、二の腕の肉を爪痕が残るくらい抓ることはよくありました。
母の常識では、どんなに嫌なものをもらってもいただきものに対しては感謝の言葉以外は伝えてはいけないことになっていたようです。
着るもののサイズが合わないとか色味が全く好みじゃなくて着ないものがきたら、突っ返すわけでないなら次は着れるものを贈ってくれられるように好みや適切なサイズを伝えることは悪いことではないのでは……?

父方の祖父からは、三人お揃いであったり、箱菓子や雑貨などがいろいろ入ったところから「それぞれ好きなものを持って行きなさい」というスタイルだったので、余り物を押し付けられて喜ぶフリを強要されるということがありませんでした。
曽祖母と祖母は日本画家で、無地の扇子や白紙にリクエストした内容の絵を描いてくれることがあって、兄は「車」とか「ロケット」、私は「スズメ」とか「花」、妹は「女の子」「お人形」といった感じにリクエストして、それらを描いた扇子をもらう、という感じでした。
ついこの間の引っ越しで、さすがにだいぶ汚れてシミが浮いていたりしたので処分しましたが、ごく最近まで子供の頃にもらった扇子をいくつも持っていました。
(ヘッダ画像に使っているのも祖母の扇子です。これは祖母が亡くなった時の形見分けで貰ったものなので、私のリクエストで描いてもらったものではないので大人向けの綺麗な花ですが、子供の頃描いてもらったのはもっと色がはっきりしていて子供向けの可愛らしいデフォルメの花が多めでした)

母は、父方のそういう、大箱の中から好きなものを取らせたり事前に用意せずリクエストを聞いてその場で絵を描くようなやり方をとても嫌っていました。事前に用意して包装もしておくこと、そこそこの価格のものを贈らないと誠意が足りないと感じるようです。
もらう側の私は、全く好みではないのに感謝を強要される母方からの贈り物より、好きなものを選べたり自分の好きなものを誂えで描いてもらえる父方からの贈り物の方が確実に嬉しかったのですが。

母方の親類は祖父母に限らず、母の従姉妹やその親も祖父母と同じで、青・黄・赤の三色セットを用意されることが多々ありました。最初からセットのものと言うわけではなくても、同じものやシリーズと思われるものをそう言う色組で三つ用意されるのです。
マフラーと手袋のセットを青系、黄色系、赤系でサイズまで子供3人の年齢に合うように用意されてしまうと、どうして女が二人なのに青・赤・赤にしてくれないのか、どうしても色違いがいいなら青・赤・ピンクでもいいし、青・白・赤でも黄色よりずっと女の子カラーじゃないか……とものすごく思います。でもなぜか青・黄・赤とか青・緑・ピンクとか、そういう配色なのです。
今思えば、そういったプレゼント(むしろいやげもののような気もする)でいつも黄色とか緑とかを嫌々身につけていたから、そういう色が好きなのだと認識されてたのかもしれません。
やはり、母に抓られても叩かれても気にせず相手方にこんな色は嫌だと言い続けた方が良かったのでは……?

母自身も、誕生日やお年玉、そのほかなんらかのお祝いやご褒美のプレゼントを買う時、言われたものからグレードを落としたり手近の適当なものを買う習性がありました。
子供に分不相応な高価なものを欲しがったとか、ご褒美の内容と欲しがるものの価値が違いすぎるというようなことではないのです。
多分、子供の言うことを真剣に聞いてないだけなのです。
「着せ替え人形のジェニーちゃんが欲しい」というとリカちゃんを買ってくるタイプのアレです。リカとジェニーは興味がなければ区別がつかないのでしょうがない感はあるかもしれませんが、お店では同じコーナー並んでいて大きさが違うので、違う方を買えば手元にある服を着せることができず無駄になるだけだということはわかると思うのですが、興味がないので調べず適当な方を買うのです。
「今使っている国語の辞書では物足りないのでもっと大きな辞書が欲しい。具体的にいうと広辞苑を買ってくれ」と、学校で使うようなサイズの辞書を見せて頼んだ時、なぜか同じサイズの他の出版社の国語辞典を渡されました。さすがにそれでは意味がないと抗議したら広辞苑を買ってきてくれましたが、私の部屋の本棚に置こうとしたら怒られて、リビングの本棚に置くことになりました。それは私へのプレゼントとは言わないのではないか?
おもちゃ売り場で惚れ込んだクマのぬいぐるみがあって「「これ」が欲しい」と言ったけどその時はプレゼントを買ってもらえるタイミングではなかったので、商品タグのメーカー名などを控えて、次の機会にはあのクマをお願いしよう……と思っていたら、次のタイミングに似ても似つかない別のクマのぬいぐるみを買ってきて「クマを欲しがってたでしょう」と言われるというのもしょっちゅうでした。私がメーカー名控えてるの見てたよね?
普段行かない大きな百貨店の中にある玩具店の特設コーナーで、ストロベリーショートケーキという名前のお人形が飾られていて、母が近くの別の店で買い物をしている間ずっとそれを見ていたことがありました。そのコーナーにはそのキャラクターの文具なども一緒にたくさん飾られていて、人形は高くてダメでもノートか消しゴムなら買ってもらえるのではないかとずっとそのコーナーを見ていました。
その時ちょうど何かのプレゼントが待機中で(お手伝いを規定回数したとか、なんらかの条件達成で何か買ってもらえることのある家でした)、買い物から戻った母に「この棚にあるこのキャラクターのものを何かひとつ欲しい」と言ったところ、「この棚のものね」と言って母が手に取ったのはなぜかキャラクターものではなく棚の反対側で販売されていたラベンダーのポプリサシェで、価格的には消しゴム1個の方がずっと安かったのに、このキャラクターだと指を指して指名したのに、なぜわざわざ棚裏からキャラものではないそれを買ったのか全く意味がわからないまま、その場で違う違うとごねることもできずそれを受け取って帰ったことをものすごく覚えています。

自分のものと人のものの境界

「子供部屋の壁にかける時計」を買ってもらった時、なぜかその時計が気に入ったらしい母がリビングにかけると言い出して、私へのプレゼントで私の部屋にかけるはずだった時計がリビングの壁にかけられてしまいました。
これは何度抗議しても撤回してもらうことができず、それほど高価なものではなかったので、お年玉で現金を持っていたときに同じ時計を同じ店で買おうとしたら同行の母に「同じものが既にあるのに買う必要はない」と却下されました。
「私は自分の部屋にかけるための時計が必要なのだから、リビングにとられてしまったあれでは意味がない、自分の部屋のための時計を買う」といくら言っても「同じ時計を買うな」で譲らず、結局雰囲気が似ていて違う時計を買いました。
新しく買った方をリビングにかけて元の時計を自分部屋に戻すことについても交渉しましたが、それも断固拒否されました。

母方の親戚がことごとく「男・女・女なのだから青・赤・赤で買おう」と考えずに三色違うものを持ってこようとするように、母の中では全く同じものをもう一つ買うというのが絶対ダメなことに分類されているように思います。
愛用していたものが壊れた時も、全く同じものを買いなおそうとするといつも却下されて、どれだけ譲歩しても形は同じで柄の違うものしか買ってもらうことができませんでした。
大抵の場合は形も違うものを買おうとします。

母は自分の部屋にあるものやリビングにあるものを子供が部屋に持ち込むことを基本禁止しているのですが、子供のものを自分が勝手に持っていくのは当然と思っている節があって、「ちょっと借りた」でそのまま持っていってしまうことも少なくありませんでした。
「自分のものは自分のもの、子供のものも自分のもの」というジャイアンメンタルなのだと思います。
1メートルの定規とか、画用紙とか、折り紙の類は私が部屋に結構ため込んでいたのですが、しょっちゅう持ち出されており、定規は使った後ほぼ必ず母の文具が片づけられた収納庫に入れられてしまうので気づいたら取り返さなくては行けないし、画用紙や折り紙の類の消耗品は使われたら補充はされません。
ちょっと綺麗な千代紙を引き出しに入れていたらほぼ全部使われてしまったこともありました。未使用で引き出しに入っていたのに、気づいたら残り数枚になっていた時の衝撃……もちろん母に「使ったら買って返せ」と猛抗議しましたが、買って返されたのは無地の折り紙一袋でした。
それ以外に勝手に持っていったものを母が自主的に返してくるのは、壊してしまった時だけでした。
壊してしまったものは部屋に放り投げて「ごめーん、あれ壊れちゃった」と言えば免罪されるという考え方のようで、新しいものを買って返すということは基本的にありません。
壊れた状態で母が持っているのを見つけた時には渋々買い直してくれることがありましたが、私の部屋に戻して(片付けてあった所定の場所ではなく部屋の中にぽんと放り込むだけ)しまえば責任は取らないというのが母のルールだったようです。

服・靴・そのほか身につけるものに関しては私の服であっても母のものという感覚だったらしく、親戚の子や母の友達の子が欲しがったという理由でまだサイズアウトしたわけでもない服がしょっちゅう消えました。
普段着は母の好みで私にあまり似合わないものばかりだったのでそれが消えても特に気にすることはなかったんですが、子供時代の晴れ着については割と気に入っていたものに限って消えました。多分、母の好みでなかったものが多かったからだと思います。
試しばきだけでまだ一度もはいてなかったエナメルのストラップシューズがなくなっていたときには衝撃を受けました。いつも地味めの服ばかり着せられていた私に珍しく与えられたつやつやした丸トゥのストラップ留めの靴は宝物のように大事なもので、それを履いて出かける日を心待ちにしていたのです。よそ行きの服については、何を着て何を履くかは完全に母に決められていて、そういう靴は正月かお盆に母の実家に行くときか、母が自分の両親よりも懐いていた叔母夫婦のところに行くときにしか履かないもので、それ以外のお出かけでは絶対使われなかったので、一番近いイベントのお正月が来るのを指折り数えて待っていたんですが……

もらった時点でサイズが少し大きくて、私が育って入るサイズになるのを待っていたラベンダーピンクのリボンと造花がついた麦わら帽子、両親の知り合いの海外旅行土産にもらった民族衣装っぽいワンピースドレス(ディアンドルみたいなデザインの、多分スイスとかドイツの方のお土産品)、赤い塗料で艶あり塗装された手提げサイズのバスケット、どれも私が使う前にどこかに消えていました。

無事私の手元に来て着ることができた服もよそ行きのものは「妹にも着せるのだから汚さないように大事に着ろ」と厳命されていました。
それはまあ、よくあることかなと思います。
ただ、私は汚さないように大事に大事に着て、用が済んだらすぐ着替えさせられていたのに、妹はそういう制約もなく気に入った服を着て外遊びをしたり着たまま寝てしまったり好きなようにして食べこぼしなどをよくつけていたので、理不尽だと思うことはよくありました。
「お姉ちゃんは新品を着られるのだから大事に着るのが当然。妹はお下がりを着ているんだから少しくらい汚してもいい」というのが母の主張でした。
自分が選んで買ってもらって気に入ってきている新品ばかりならいうことも理解できるけど、服を選ぶ自由がなくて気に入らない服ばかり着せられていてそう言われるのはどうも納得がいきません。

私が見ていない間に母が衣料品などを人にやってしまうのはしょっちゅうでしたが、私がいるとき私のものを人にあげるように強要されることもよくありました。
ぬいぐるみ、飾り物、アクセサリー、文具、植物、そのほかなんでも、来客やその子供が「可愛い」とか「いいな」とか言ったものはなんでも差し出すように言われるのです。
大抵は客の方が断ってくれるのですが、母が押し付けることも少なくはなくて、フェルトを縫って作ったマスコット人形を持っていかれたり、絵を描くためにため込んでいた色ペン(アルコールペンのコピックではなく水性ペンのZIG派)をごっそり何十本も抜かれたりということも。
庭の花壇の使われていなかった一角を自分の専用にして色々育てていたんですが、やっと咲いたバラの花を切ってしまったり、何年も育ててやっとひとつ実のついたレモンの実を取ってしまったり、一年草の花の盛りに全部の花を挟みで切って持っていってしまったり……多分今思えばお客さんは社交辞令として「花が綺麗ですね」的なことを言っただけだと思うのですが、私の花壇の花は褒められるとだいたい切ってお土産にされてしまうのです。
母が自分で面倒を見ていた花壇の花は褒められても切られてしまうことは滅多にありませんでした。

妹の悪癖

妹がとても小さかった頃、妹はよく私の大事なものを持ち出しました。
その頃は子供部屋が共有だったので、まだ幼稚園児の妹的には姉のものと自分のものも区別はあまりなかったのかもしれません。
当時流行していて運よく買ってもらったモンチッチ(お猿のぬいぐるみです)を妹が持ち出して、私が学校から帰ったらモンチッチが消えていたことがありました。
友達の家に持って行き、そこで友達にあげてしまったとか公園に一緒に行ってそこでなくてしまったとか、話が二転三転して結局うやむやになったのですが、母は多分妹からだけ話を聞いて妹の友達の家に問い合わせなどはしなかったのだと思います。
モンチッチは当時人気のおもちゃで大手の玩具店に行けばいくらでも同じものが売っていましたが、もう一度買い直して欲しいといくら言っても母は同じものを二度買うことは絶対しませんでした。自分の誕生日が近かったので、誕生日にモンチッチをもう一度と言ったけど、絶対ダメだと言われました。

当時流行していたオマケつきお菓子のオマケに小さな着せ替え人形がありました。パピーちゃんというシリーズで、ぷっくりシールのようなちょっとふくらみのある平面に印刷された人形と二枚重ねのビニールに両面印刷された衣装とヘアパーツを組み合わせる小さな着せ替え人形です。
我が家では袋菓子の大袋だったり、缶に入ったちょっと高級なクッキーが常備されていることが多くおまけがついているタイプのお菓子を買うことはあまりなかったので、珍しい機会にチマチマと買ってもらって集めた虎の子のオモチャだったのです。
それを入れていたケースごと妹が持ち出して失くして帰ってきたことがありました。
ちょうどタイミング悪くおまけおもちゃの入れ替え時期で、平面だったパピーちゃんは立体のプラモデルのような造形に変更されてしまい、失くしたものと同じ形のお人形はお菓子を買い直しても手に入らなくなってしまっていました。

また別の時、同じようなぷっくりシールのような真ん中に薄いウレタン綿の入ったビニールのキーホルダータイプのオマケのおもちゃを大事にしていたことがありました。あれは多分グリコのおまけで、香り付きキーチャーム的なものでした。バラの花の形と絵柄で、バラの香水が染み込ませてあったのです。
それを紙の小さな箱に入れてタンスにしまっておくとタンスの引き出し内がふわっと良い香りになるので、ハンカチなどを入れる段にそれをしまっていました。
妹はそれを取り出して幼稚園に持って行き、今度はなんと、ハサミで半分に切って仲良しの友達に半分あげてしまったというのです。
二度も姉のおもちゃを持ち出して失くしているのに大抵懲りない子だと思いますが、母は妹に状況を尋ねはしても叱ることはしていなかったようですし、私も自分が泣いただけで妹を怒るとか責めるとかそういうことは一切していなかったので、妹にとってはやってはいけないことだという認識はなかったのかもしれません。
妹の手元にあった半分にカットされたそれを突き返されて「全部無くなったわけじゃないんだからこれで諦めろ。匂いはちゃんとするからいいじゃない」というようなことを母に言われました。
その時はさすがに私はとても怒って、生まれて初めてくらい泣き喚いて妹を悪様に罵って、友達のところに行って半分を取り返してこい姉のものを勝手に持ち出して人にやるなんて泥棒のやることだと怒鳴りましたが、母に平手でぶたれたし、母も妹も私のものをやってしまった友達やその親に連絡することはありませんでした。
もちろん同じものを買って返してもらえることもありませんでした。
私は半日くらい泣き喚いていた記憶がありますが、母は私に怒鳴られて泣いてしまった妹の面倒を見ていたので、私は部屋にずっと一人でいました。

母の認識

希望したものは滅多に買ってはくれず、誕生日などのプレゼントも私が小遣いで買ったものも構わず勝手に人手に渡したり自分のものにしてしまうことがしょっちゅうだった母ですが、母の認識の中では「子供が望んだものはなんでも与えてやった」ということになっているらしいです。

誕生日、クリスマス、正月(小さい頃は現金じゃなくて物品のお年玉だった)、その他親からの課題を達成したときなどにはプレゼントがもらえることになっていたので、物をもらった回数は多い方かもしれませんが、望んだものを贈られたことはほぼありません。

たまに手に入れた本当に気に入ったものの多くは気づいたら母が人にやってしまっていたり、妹が持ち出してなくてしまったりして、あまり長く私の手元にあることはありませんでした。


大人になってから不思議に思ったことですが、兄や妹が外で物を失くした時、母は割と必死にそれを探していました。
食事に行ったレストランにぬいぐるみを置き忘れた、持って出掛けた文庫本を民宿に忘れた、発表会でもらった花束を電車の網棚に置き忘れた、自転車を盗まれた……その種の訴えで母は心当たりに片端から電話で問い合わせ、現地に赴き、高い確率で失くしものを見つけてきていました。
兄が腕時計を失くした時は結局出てこなかったので代わりになる時計を買っていました。
私と違って兄も妹も臍を曲げると強情なタイプで、部屋に閉じこもって出てこなくなったり何日でも不機嫌で泣き喚き続けるので、母は根負けして探し物をするのかなと思っていましたが、因果が逆だったかもしれません。
私が彼らのようにずっと不機嫌でいれば母は手をあげたし、いつまで愚痴愚痴いってるつもりだと怒られたし、どれだけ駄々をこねても失せ物を探すための手間を取ってはくれなかった気がします。

母は私の部屋からは文具や資材をよく持ち出したけど、妹の部屋から同じように何かを持ち出したのを見たことがありません。

私のものを母や妹が持ち出して壊したり自分のものにしたり誰かにあげてしまうことはよくあって、補償されたことはないけど、妹のものが同じようにされたのは見たことがありません。

私は母から望んだものと違うものを与えられることが多かったけど、妹はわりといつも希望通りのものを手に入れていた気がします。

やっぱりこれはあれか、私だけが扱いが違ったやつか……

蛇足

これは、私の僻みかなと思う蛇足ですが
兄が生家を出て父と暮らすことになった頃、中学生だった兄は一人部屋、小学生の私と妹は二人一緒の子供部屋でした。兄が小学三年生の頃までは兄妹3人一まとめの子供部屋暮らしだったのですが、二段ベッドプラス布団1組と学習机2つで六畳間はもうギリギリいっぱいで、妹の小学校進学に伴って学習机をもう一本入れるのは無理なのでお兄ちゃんを個室にして姉妹は一つの部屋にしようと組み替えたのです。

この頃住んでいた我が家は5LDKで、一階はリビング、ダイニングキッチン、客間と呼んでいた和室、3人一部屋の頃は子供部屋と呼んでいた六帖の和室があって、二階には六帖の和室が2部屋と7帖くらいの洋間が1室ありました。二階の和室のうち1室は両親の寝室で、洋間は父の個室、もう一つの和室が母の個室でした。
これを父が家を出るのに伴って洋間は空き部屋になっていたので、兄はそこへ入ったわけです。
そうすると夜寝る時娘二人だけが一階にいるのは用心が悪いということになって、母の部屋と子供部屋を交換して、一階の和室が母の個室、二階の和室が私と妹の部屋になりました。
その後一年で兄は家を出たのですが、兄は家具などを持たずに出て行ったため、転居するまで四年間兄の部屋はそのまま維持されていました。
妹が友達を家に呼んだときや妹が部屋で遊んでいる試験前などは兄の部屋の机で勉強したりすることはありましたが、兄の部屋を片付けて妹と部屋を分けたいという主張は出すことも絶対許されない空気がありました。
母は、兄はしばらくすれば落ち着いて家に帰ってくると信じていたようで、無人の部屋の掃除は欠かさなかったし、家中のカーテンや絨毯を夏冬で入れ替える時兄の部屋も必ず一緒に交換していたし、毎日の雨戸の開け閉めも必ず毎日していました。

その後住人が女3人のまま4LDKのマンションに転居することになって、兄の荷物は大部分が廃棄され、さすがに新しい家に兄の部屋はありませんでした。
新しい家はLDKと四畳半の和室、5.5帖の洋間、六帖の洋間が2つで、六帖の洋間が一つずつ姉妹の部屋、5.5帖と四畳半は母の部屋でした。
私は14歳から18歳までこの家で暮らして、母との暮らしに行き詰まりを感じて表向きは進学先が少し遠いからという理由で逃げ出したわけですが、その際ベッドや学習机などの大型家具をいくつか残して行きました。
少なくとも表向き絶縁や家出ではなかったため、普通に呼び出されれば帰省していたのですが、新学期に合わせた転居後夏休みに初帰省したとき、私の部屋だったところは倉庫になっており、残して行った家具は全廃棄済、私が寝るところはないのでリビングの床に布団を敷いて寝ろと言われました。
帰省せよと命じておいてこれか、二人暮らしで4LDKあって帰省した娘を寝かせる客間すらないのか、兄の部屋は4年間維持されていたのに……という何とも言えないモヤモヤを感じました。

その後いろいろあって母の実家の庭先にあった2DKの離れとその横の庭を相続した母は、元々あった建物を改築する形で4LDKの二階建ての家に作り替えて、現在はそこに暮らしています。
法律のことは全然わからないのですが、聞くところによればその離れは公道に全く面していないので離れを潰してすべて新築することができないとかなんとかで、離れに渡り廊下を繋いで新築部分を接続したような歪建築のため、4LDKのうち2室は通路か倉庫としてしか使い道がなく、実質は2SLDKみたいな感じです。
離れ部分の八帖の和室と六帖の板間は風呂場への行き来の時必ず通り過ぎなくてはいけないのです。
とはいえ、入浴と洗濯の際にそこを通過するということさえ許容すれば使えないわけではないちゃんとした和室です。

母からの要請を受けて帰省した際、新居部分に空き部屋はありません。
とはいえ離れの和室がまるまる空いているので、そこに布団を敷いて寝ればいいと思ったのですが、母の頭にはそこに布団を敷くという発想が全くなく、私が寝る場所は二階の廊下でした。
布団の幅より狭い廊下に無理やり布団を敷いて寝るんですが、廊下の端にはトイレがあって、母や妹がトイレに起きると私の寝ている布団を踏んで通ります。
呼び出されて帰省しているのにどうしてトイレの前の廊下で寝なくてはならないのか……帰ってきて寝る部屋もないなら帰って来いとかいうべきではないのではないかとか、どうしても帰省させたいなら自分が廊下で寝て部屋のベッドを譲るくらいはするべきなんじゃないのかとか色々思いました。
この頃、一人暮らしを辞めて戻ってきて家のことを手伝えとすごく言われていました。
離婚が成立して父からの婚費も無くなったし、妹が成人して専門学校を卒業して生活費学費も無くなったので生活が苦しくなったのだろうというのは推測できますが、暮らす部屋もないのに帰って来いとか無理筋にも程があるのでは……

多分、母にとっての私は昔から労働力として以外必要ではなかったんだろうなあ、と母と暮らした人生よりも一人暮らしの人生が長くなる頃、やっと諦めがつきました。
兄と妹は母に子供として可愛がられているけど、私はそうではなくて、兄や妹のサポートが必要ではなくなった今では、稼いでくるお金くらいしか必要のない存在なのでしょう。

この先母が老いて自活できなくなったとき、妹がその面倒を見るのか、私にもなんとかしろと声がかかるのかが目下の不安材料です。
そんなもん知るか勝手にやってくれと言ってもいいものか、血の繋がった親の面倒は見なくてはいけないのか……とても不安です。
妹は幼児の頃は傍若無人な子供で私のものをよく持って行ってしまったけど、そのまま育ったわけではなく割としっかりした良い子なのですが……
彼女は多分、私と自分に格差があったとは全く考えておらず、子煩悩な良い母だと感じていると思うのです。

でも、自分だけでは無理だから戻ってきて母の介護を手伝って、などと言われたら多分私は妹にそのことを全部説明して、あなたが母を慕うほど私は母を大事には思っていないのできちんと面倒を見る気はないし義理もないと思っている。末期の面倒を見て欲しいなら母は子供の頃の私の要求をもっと真摯に聴くべきだった、と伝えるのではないかと思います。

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