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【心のこと】マインドフルネスで、ふたつの「私」という意識があることに気づく

数ある記事の中からご訪問いただきましてありがとうございます。
マルソルです。

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今日は「心のこと」について思うことを書いていきます。

私は、悩みによって心が揺さぶられることが多く、そんな揺れやすい自分の「心」を冷静に保ちたくて、「心」や「意識」のことにとても興味がありました。

「マインドフルネス」と「瞑想」の違いを知りたい


2年ほど前のことです。
最初のきっかけは、当時よく耳にするようになっていた「マインドフルネス」のことを知って、自分の心を俯瞰できるようになりたいと思ったことからでした。

「マインドフルネス」のことを調べていると、ある疑問が私の中で浮かび上がってきました。

「マインドフルネスをする(今ここにいる)のはわかるけど、そもそも定義はなに?」
「もともと日本には座禅や瞑想という文化があるのに、どうしてマインドフルネスが注目されたんだろう?」
「瞑想と何が違うんだろう?」

と気になり、それを知りたくて興味深そうな本を購入しました。

この本を読む前、マインドフルネスと禅は、ふたつのまったく異なった地図で、それぞれ違う進路を示しているように見えるでしょう。
でも読み進んでいただければ、実はふたつの地図は、ひとつの大きな地図の、びりっと裂かれた両片であるということがわかってきます

「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える/山下 良道 (著)


禅とマインドフルネスの両方の修行をされた著者が、どちらの事情も踏まえたうえでお話されている点が、それぞれひとつのことを目的としていたということを理解しやすく、読みやすかったです。

自分の心が作った映画の世界から抜け出たい


私はいつも世界を、見たいように見ています。
これは「自動思考」をした自分が見ている世界とも言えます。

この「自動思考」のことを本書の中では「thinkingマインド」と呼んでいます。
雑念やもくもくした、あいまいな思考状態のことです。
この「thinkingマインド」が、私の悩みを作り出すひとつにありました。

「thinkingマインド」を理解するのに、私はよく映画のたとえを使います。
映画館には基本的にプロジェクターと大きなスクリーン、そして座席がありますね。
我々の「thinkingマインド」は、プロジェクターの働きとそれを映し出すスクリーンの機能を持っています。
これはご自分の心をご覧になればすぐにわかりますね。
そしてもうひとつ大事なのは、自分がそのスクリーンに映し出された世界の中に飛び込んでいっていまうこと。身体は座席に座ったまままですが。
スクリーンに映し出された映画の世界をリアルに感じてしまいます。
これが「thinkingマインド」がやっていることのすべてです。

「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える/山下 良道 (著)


「今」の現実で私がリアルに感じて悩んでいるもののすべてに、この「thinkingマインド」が働いていることがわかります。

私たち人間は、現実を生きているのではなく、自分の心が作った映画の世界を生きている。まずは、この事実を認めることから始めなければいけないのですが、もちろん、そんなすぐには納得がいかないことでしょう。
実はマインドフルネスとは、その映画から出ていくこと。
でもそれを理解するには、心の映画の特徴を理解しなければなりません

「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える/山下 良道 (著)

私は、自分の心に振り回されていることは自覚していました。
でも、心を振り回す自分の「thinkingマインド」(自動思考)が、どんな思考をしているのかまでは気づいていません。

でもこの時は、「自分の心が作っている映画からまず出たい」という気持ちで、「マインドフルネス」を使って自分を観ていこうと思ったのでした。

「目隠しをされた彼女が見ているものは何か、ソードの8」


「ソードの8」は、まるで「thinkingマインド」(自動思考)をしている最中のように見えます。
目隠しをされ、体を縛られ自由に動けない女性は、その目隠しの下では「thinkingマインド」(自動思考)が作った映画を現実のように見ているようです。

そして、このカードを眺めながらそのことに気づいたということは、マインドフルネスを使って映画から抜け出た状態と同じことを体験した、ということになるのではないでしょうか。

慈悲の瞑想で「自分」を知る


自分の心を振り回し、現実とは違う世界を見たいように見せる「thinkingマインド」(自動思考)。
この自動思考とは別に「私」と思っているマインドがあることに気づいたのは、「慈悲の瞑想」について読んでいる時でした。

(以下、省略を含みます)

「私が幸せでありますように」
「私が苦しみから解放されますように」

「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える/山下 良道 (著)


この「慈悲の瞑想」の最初の一文で私は泣いてしまいました。
自分自身に慈悲の気持ちを送れていなかったのです。
そして、自分に慈悲を送ることを拒んでいた「私」がいたことにも気づいたのでした。

次に、自分が好意を持っている人に向かって

「この人が幸せでありますように」
「この人が苦しみから解放されますように」

次に、今日すれ違った人や見ず知らずの赤の他人に向かって

「この人が幸せでありますように」
「この人が苦しみから解放されますように」


次に、怒りや恨みや憎しみや嫉妬を長期抱いていた人に向かって

「この人が幸せでありますように」
「この人が苦しみから解放されますように」

では、これまでの自分も他人も、他人の中でも、好きな人、嫌いな人、赤の他人も、そういう区別がいっさいない状態で

「生きとし生けるものが幸せでありますように」
「生きとし生けるものが苦しみから解放されますように」


すべてを手放して慈悲の中に身を投げてください。

「マインドフルネス×禅」であなたの雑念はすっきり消える/山下 良道 (著)


自分に慈悲の言葉を向けれない私は、当然その後に来る、自分にとって問題だと思っている相手に送る慈悲の一文にも強い抵抗を感じました。

怒りを感じている相手に慈悲の言葉を送りたくないと思う「私」がここにもいたのです。

ではこの「私」とは一体なんなんでしょうか。
「thinkingマインド」(自動思考)する「私」と、慈悲を自分にも怒りの相手にも送りたくないと思っている「私」は当然、別々の「私」です。

なぜなら、「thinkingマインド」(自動思考)する「私」は無自覚で、慈悲を送りたくないと思っている「私」には自覚があったからです。

私はこの著書を読んで、このふたつの「私」と思っているマインドが、自分の中に共存していることに気づくことが、最初の一歩なんだと思いました。
そこに気づくための方法のひとつが「マインドフルネス」の「今ここ」に意識を置くことなんだと思います。

そしてその次に大事になのことは、「慈悲の瞑想」で気づいた、「慈悲を送れない私」の声を聞くことです。

「慈悲を送れない私」というマインドは一体なんなのか。
この正体は実は「インナーチャイルド」と呼ばれるものだと私は思っています。

「インナーチャイルド」ってなに?
「それって癒されなかった子どもの自分でしょ?」

と思われることでしょう。
私もそう思っていました。

でも実は「インナーチャイルド」とは「チャイルド」と言うものの、子どもだけではなかったのです。

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今日はここまで読んでくださってありがとうございます。
ではまた。




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