あなたはこうやって結婚生活に失敗する(18)の2
あなたは煙草を大きく吸い吐き出すと視線を店内に移します。この喫茶店の空間は広すぎることもなく狭すぎることもなくあなたが最も心地よくなる広さでした。広すぎるならビジネスマンふうのお客が利用することが多くなり、狭すぎるなら常連客で固められてしまうからです。あなたはこの広さが一番くつろげる空間でした。
あなたの席はいつも窓際ですが、その席から見て斜め向かいの端のテーブルに座っている老女が目に入りました。あなたが喫茶店にいるときにたまに見かける老女です。しかし、今まであなたが見かけていたときは二人連れでした。いつもご主人と思われる男性と向かい合って座っていたのです。老女が一人で座っているのを見るのは初めてでした。
あなたはこの老夫婦をいつも気に止めていました。それは、喫茶店にいる間、ほとんど会話をしないからです。ご主人は新聞を読んでいるか、そうでないときは本を読んでいました。奥さんのほうはただ背を丸め静かに座っているだけです。どこを見るでもなくただ座っていました。あなたはその二人の様子をみていつも思っていました。
「あれで、楽しいのかな…」
娘さんの結婚式の夜。そうです。あなたが、ではなく、奥さんが離婚の話を切り出して以来、あなたと奥さんの二人の関係に微妙な空気が流れていました。決して険悪な空気ではないのですが、和やかという空気でもありません。強いて言えば、事務的な空気とでも言いましょうか…。
まるで示し合わせたかのように、あなたも奥さんも「離婚」については触れないでいました。あなたがまだ結論が出ていなかったからです。もしかしたら、奥さんも同じかもしれません。奥さんは自分から言い出したのですが、確たる理由がないのですから気持ちに変化があってもおかしくはありません。あなたはそう思っていました。
あなたがリビングのソファに座って新聞を読んでいると奥さんがやってきました。手にはA4ほどの大きさの用紙を持っています。ソファに座るとテーブルに用紙を置きボールペンで書き込みはじめました。書き終えると、CDをかけに立ち上がりました。スピーカーから流れてきたのは、奥さんが好きな徳永英明の歌です。しばらくすると、あなたが新聞のページをめくるのをまっていたかのように話しかけてきました。
「ねぇ、私じゃなくても『誰でもよかった』ってことある?」
あなたは、突然の問いかけに新聞をめくる手を止め奥さんの顔を見ました。奥さんは半分笑っているようにも見えました。
「う~ん、どうかなぁ。やってみないとわからないってとこあるから…。おまえのほうこそどうなんだ? 俺じゃなくてもよかったのか?」
「私はあなたでよかったわ、本当よ。…離婚のことだけど、本当に特別な理由はないの。ただ自由になりたいだけだから。気分悪くしないでね」
あなたは二、三度軽く頷きます。しかし、まだ離婚について結論を出す気分にはなっていませんでした。あなたは奥さんが書いていた用紙に目をやります。
「なに? それ」
「会社に提出する引越し申請書。まだ、正式な引越し先は決まってないんだけど『現住所』だけは書いておこうと思って」
あなたは用紙を覗きこみました。
新住所:
現住所:神奈川県富士見市横川町3の22の17
「へぇ~、おまえの会社って親切なんだな。引越しの面倒までみてくれるんだ」
「一応、私、幹部だから」
茶目っ気な笑いをしながら奥さんが答えました。あなたも奥さんに合わせるように笑って応えました。あなたは笑いながら頭の中では違うことを考えていました。
こうして二人が笑い合っている様を他人が見たら離婚を考えている夫婦には見えないだろうな…。しかも、そのときに流れていた曲名は「love is all」…。
「愛が全て」…か。
翌日、いつもの喫茶店に行くと珍しく席が埋まっていました。あなたは入口付近で店内を見渡します。普段ですと、あなたが行く時間に席が満杯であることはありません。あなたが席を探していると店の従業員が声をかけてきました。
「申し訳ありません。今日はこの近くで集まりがあったみたいでその関連の人たちが流れてきたんですよ」
「そっか。じゃ、仕方ないからまた…」
あなたが店を出ようとしたとき、あなたが立っている横の席から声がしました。
「よかったら相席でもいいですよ」
声の主を見ると、あなたが以前から気になっていた老女でした。あなたは老女の勧めに甘えて相席をすることにしました。
普通、見知らぬ人と相席になると気を使うものです。しかし、その老女はあなたにとって「見知らぬ」人ではありませんでした。あなたはお礼を言いながら老女の向かいに座りました。
相席をしたからと言って、必ずなにかを話さなければいけない、ということはありません。たまたま相席になっただけなのですから話す義務などありません。あなたは席の横の棚に置いてある新聞に手を伸ばしました。
あなたは新聞を読んではいましたが、意識は老女に向いていました。
いつも遠くから見ていましたので、これほど近くで見るのは初めてです。年の頃は70才半ばくらいでしょうか。そんなことを想像していました。
ウェイトレスがコーヒーを運んできました。あなたは新聞を膝の上に置き、ウェイトレスがコーヒーカップをテーブルに置くのを見ていました。そのとき、なにとはなしに老女と目が合いました。あなたは軽く会釈をします。老女は柔和な表情で返し、あなたのコーヒーを見ながら話しかけます。
「いつも同じものですねぇ」
「ご存知ですか? なんか恥ずかしいな」
「いつもあそこに座ってらっしゃいますよね」
老女はそう言いながらあなたがいつも座っている席のほうに指の先を向けました。あなたは指を向けられたほうに上半身を少し向け、そして元に戻すと老女に微笑みます。
「そうなんですよ。私の特等席を今日はとられちゃって…」
「たまにはこんなおばあちゃんと相席もよろしいんじゃないですか?」
あなたは冗談を言う老女に少し驚きます。いつもあなたが離れたところから見ていた老女の印象とは違っていたからです。ご主人と思しき男性と一緒に座っているときの老女は無口で人見知りをする感じがしていました。老女が親しげに話すのにつられあなたもつい質問してしまいます。
「いつも一緒にいらっしゃる男性はご主人ですか?」
「ええ、50年以上連れ添いましたけど、この前亡くなったんです」
自分の夫の死亡をさらりと話す老女に人生を達観した雰囲気を感じながらもあなたは不躾な質問をしたことを詫びました。そんな質問にも気さくに答えてくれた老女と、結局、あなたは30分以上話し込んでしまいました。
老女の名前は「キヌ」さんでした。ご主人とは亡くなるまで都合53年間暮らしていたそうです。あなたはそのコツを尋ねましたが、返ってきた答えはたったの一言でした。
「ない」
あなたは喫茶店からの帰り道、その一言を繰り返します。
「ない…」。
その日、奥さんと晩ご飯を食べていると、奥さんが世間話でもするように言います。
「今度の転勤先、なかなか決まらなくて…」
あなたには、奥さんができるだけさらりとした口調で話をしようとしていたのがわかりました。やはりどこかぎこちなさがあったからです。奥さんの転勤は、奥さんが離婚を考えるようになったきっかけの一つでした。その転勤先が決まらないのですから、「ぎこちなさ」があったとしても不思議ではありません。
あなたは、奥さんが「意を決して」話したことを感じてはいましたが、そんなことはおくびにも出さず、あなたもできるだけ世間話をするように答えます。
「そうか、決まったら教えてくれよ」
あなたが軽く受けてくれたことが奥さんはうれしかったのでしょう。冗談交じりのような口ぶりでいいます。
「あなた、離婚の件だけど、決断できた?」
「ああ、あと少し心の整理に時間をくれないか?」
心の整理…。
あなたは自分の口から出た言葉に思い惑っていました。離婚について最初に話し合ったとき、すでにあなたは「心の整理」ができていたからです。もし、あのときあなたが先に話をしていたなら「心の整理」を口に出していたでしょう。人生とはおかしなものです。
夜寝るとき、あなたは昼間の老女の話を思い出します。
キヌさんは結婚式を挙げるまで、夫となるべき人の性格はおろか顔も知らずにいたのでした。テレビなどで、昔の結婚事情を聞くとき、そのような話を聞いたことはありますが、実際に身を持って体験した人から直接聞いたのは初めてです。
それでよく50年以上も一緒に暮らしていたよなぁ…。
あなたの正直な感想でした。
つづく。