<おまえの母ちゃんでべそ>
*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。
いよいよパリ・オリンピックがはじまりました。僕の気持ちはそれほど盛り上がっていませんが、マスコミ・メディアはどの局も特番を組んで盛り上げようと必死です。これから2週間、夜のニュース番組はオリンピック一色になることが予想されます。その際に僕が気になるのは「無理やりにストーリーを作る」ことです。視聴者を「感動させなければ意味がない」とでも言いたげにストーリーをこじつけてきます。
例えば、子ども時代とか育った環境、出会った指導者など、競技とは関係なくもないですが、直接は関係があるとは思えないストーリーで感動を呼び起こそうとします。そうした映像を見せられてしまいますと、番組制作者の魂胆が透けて見えるようで、僕は逆に気持ちが冷めてしまいます。僕はそうした手法が好きではありません。もっとシンプルに競技についてだけ報じてくれることを願っています。
確かに、競技で世界の頂点に立つまでには、そこに至るまでいろいろで様々な努力・葛藤があったことは間違いないでしょう。世界の頂点を極めるのが簡単でないことは理解できますし、そこに至るまでのプレッシャーも並大抵ではないのもわかります。そうであるからこそ、こじつけたストーリーは幾多の困難をくぐり抜けてきた本人の努力を貶めしまうように思えて仕方ありません。
ストーリーを作る際によく使われる言葉に「絆」があります。東日本大震災のときから使われることが多くなったように感じていますが、その「絆」から連想されるのは家族であり、そして親子です。先週、テレビドラマ「海のはじまり」について書きましたが、第4話も観ました。脚本の生方さんは「女性性」と「自分で決める」ことをテーマにしているように思いますが、僕がそう思うのは出産できるのが「女性だけ」だからです。
やっぱし、人間って父親との関係よりも母親との関係がその人の性格なり考え方に影響を与えているように思います。自分が年をとればとるほど、そう思うようになっています。なので「おまえの母ちゃんでべそ」なのです。「おまえの父ちゃん」ではなく、「母ちゃん」であることに親子関係のすべてが凝縮されています。
今の子どもたちもこの言葉を使うのかわかりませんが、昭和の時代は使われていました。僕の周りでは、「悪意」というよりも「からかい」の意味合いで使われていましたが、それが仲間内で通じていたことは確かです。もちろん、当時はさして深い意味では考えていませんでしたが、でべそが「母ちゃん」であることが「からかい」になっていました。もし、でべそが「父ちゃんだ」だったなら、「からかい」というか冗談にはならなかったでしょう。
それほど「母ちゃん」は子どもにとっては大きな存在だったことになります。偶然なのか意図的なのかわかりませんが、最近は「妊娠」「出産」にまつわるドラマが多く放送されていますが、ドラマの中心になるのは「母親」となる女性のほうです。子どもを産めるのは女性だけですから当然です。ですが、生まれてくる子どもの視点で考えますと少し違ってくるように思います。
以前、人工授精で生まれた医師が自分の本当の父親を探す記事を読んだことがあります。現在でもネットで検索しますと出てきます(https://www.kanaloco.jp/news/social/entry-48873.html)が、この医師が本当の父親を探す理由は、自分が非配偶者間人工授精で生まれていたからです。自分の遺伝上の父親を知りたくなるのは人間の本能なのかもしれません。
NHKには「ファミリーストーリー」という番組がありますが、この番組は出演者の系譜をたどっていく番組です。以前、その番組に俳優の草刈正雄さんが出演していました。草刈さんのお父様は米国の兵士だった方だそうで、草刈さんはこの番組をきっかけにお父様の親族に会いに行っており、その内容も放送されていました。表現は悪いですが、お母様と息子である草刈さんを捨てて米国に帰ってしまったお父様です。それでも草刈さんは会いに行きたかったのです。やはり、血のつながったお父様に会いたくなるのは本能のようです。
人工授精をしてまで「自分の子どもを持ちたい」と思うのは親の欲望です。「欲望」などという刺激的な言葉を使うのは、僕が「子どもを持ちたい」という気持ちを批判的にとらえているからです。そこには「子どもの視点」が入っていません。「子どもの気持ち」が入っていないのです。先ほど、「海のはじまり」について書きましたが、くしくも7月22日放送の「海のはじまり」では子どもの立場での意見を主人公の一人・水季が口にしていました。
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「水季水季って、お母さん水季に会いたかったんじゃないよ。子供が欲しかっただけでしょ。母親ってポジションほしかっただけでしょ」
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この回の核心となる台詞と思いましたが、僕の思いを水季が言ったようで驚かされました。「ポジション」という言い方には反発する人もいるでしょうが、「自分」が「母親になりたい」というのは紛れもない事実です。そして、そこには子どもの視点が入っていません。
今の時代は「妊活」が言われることが多いですが、「どうしても子どもが欲しい」と思っている人たちはこの水季の言葉になにを思うのでしょう。「母親ってポジションほしかっただけでしょ」はとても辛辣ですが、「子どもを持ちたい」と強く願っている親の心の側面を言い得ているようにも思います。
と、こんな真面目くさったようなことを書いていますが、正直に告白しますと、僕自身の若い頃はそんな真面目に夫婦のことや子どもことや家族のことを考えていたわけではありません。僕はもうすぐ70歳になりますが、20代半ばに結婚をして子供が生まれて(順番は逆でしたが)、ただただ必死に社会の片隅で生きてきただけの人間です。
学生時代、僕は社会人になったらできるだけ早く「結婚をしたい」と思っていました。その理由は、ひとりぼっちが寂しかったからです。親との関係が特別に悪かったわけではありませんでしたが、孤独感はずっと持っていました。よく冗談で「友だちがいない」と言っていますが、本当に友だちづきあいというものが苦手なのです。ですので、友だち代わりのために妻をめとったわけですが、おかげで寂しい思いをせずに済んでいます。もちろん、ただの友だちではなく、親友です。
僕の場合は自然に子どもができましたので、「子どもがほしい」と強く願っている親の気持ちはわかりません。ですが、そこに自分の思いだけではなく、生まれてくる子どもの気持ちにも思いをはせてほしいと願っています。「親のポジション」がほしいだけであるかどうかを自問自答するのは親の務めです。
「おまえの母ちゃんでべそ」には、母親を侮辱することでその子供を傷つける意味あいがあります。つまり、母親と子どもは一体ということです。ここがポイントで、子どもの世界では子どもと母親は一つ、ひと塊なのです。子どもが母親に対して「好きか、嫌いか」などと考える隙もないくらい、ひとつになっていることに大きな意味があります。
最近は親子間のトラブルのニュースが報道されることが多くあります。親が子どもを虐待したり、反対に成人した子供が年老いた親を虐待したりです。そうしたニュースを聞くたびに「おまえの母さんでべそ」が懐かしく思い出されます。
じゃ、また。
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