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<公共広告>
*この記事は「脱サラをする前に」というサイトから転載したものです。
中居さん騒動は、中居さんが「芸能界引退」を表明しましたが、それでも収まる気配がまったくありません。明日フジテレビが再度会見を開くことになっていますので、その会見次第ではまた新たな展開がありそうです。前回も書きましたが、ネット上では「中居さん」をネタにすることで再生回数の増加を狙っている動画が多く、とても不愉快です。再生回数が収入に結びつきますので当然かもしれませんが、「儲かるならなにをやってもいい」ということではないはずです。倫理観はどこに行ってしまったのでしょう。
倫理観でいいますと米国のトランプ大統領も同様です。バイデン政権の政策を全否定するような政策転換には倫理観の欠片も感じられません。一国のトップ、しかも世界で最も強大な国家のトップです。世界に対する大国の責任があるはずで、その国家のトップに立つ人間としての適格性に疑問を感じている人もたくさんいるでしょう。
しかし、前回も書きましたように、視点を変えてトランプ大統領の政策を見ていきますと、全部が全部「問題だらけ」ということでもないようにも思えてくることもあります。例えば移民政策ですが、人道的観点からしますとバイデン政権のように移民に対して寛大な対策をとったほうが人間的と思えます。ですが、移民が流れ込んでくる地域の人たちからしますと「たまったものではない」のも確かです。治安も悪くなるでしょうし、普通の暮らしが脅かされる社会になりそうな不安感を持つことも容易に想像できます。
昨年末にウクライナ支援について取材している番組を見ました。ウクライナの隣国の状況を伝える内容でしたが、ロシアの侵攻が起きた当初は、避難してきたウクライナの人たちを支援することに積極的だった隣国の人たちも、3年過ぎた現在では様変わりしているようでした。僕の持論ですが、「同情は長続きしない」のが人間です。
この持論には人間を批判する意図はなく、「人というのはそういうものだ」というだけに過ぎません。人間は、最後は自分を優先させる生き物です。ですので、米国でトランプ大統領が誕生したのも必然なのかもしれません。覇権国家として世界平和を目指していても、自国アメリカでの生活がままならくなっては「素晴らしい大統領」とはいえません。
米国のことはさておき、「中居さん問題」が発覚したことで最も変化があったのはフジテレビのCM広告です。多くのスポンサーが差し止めをしたため、フジテレビはほとんどが「公共広告」で埋まることになってしまいました。ネットでは「公共広告」に出演している「なかやまきんに君」が出すぎということで批判されるという“とばっちり”を受けていますが、誰が見ても「公共広告」ばかりでは味気ない気持ちになります。
その「公共広告」で僕が気に入っているのは「決めつけ刑事」編です。この広告を制作しているACジャパンのサイトでは、この広告は「SNS等の単なる噂話や偏見のみで善悪を判断することに警鐘を鳴らすことが目的」となっていますが、最初僕は違う意味に受け取っていました。それは、「冤罪防止」です。
「警察を批判するこんな広告、よく作ったな」と感心したのですが、僕の勘違いであることがあとからわかりました。ACジャパンの意図は僕の考えとは違っていたのですが、しかし、僕のように視点を変えて見ると「冤罪防止」の広告と見ることもできます。僕は冤罪についてこのコラムでときたま書いていますが、冤罪が起きる一番の原因は、まさに「刑事による決めつけ」です。
このコラムで幾度か取り上げていますが、2019年に起きた「プレサンス事件」は冤罪が確定した事件です。その1年後にも「大川原化工機事件」が起き、これも冤罪が確定しています。そして、これらに共通しているのは「決めつけ刑事および検察官」の存在です。そして、こうした事件を見るたびに僕が思い出すのが「松本サリン事件」です。
古い話で恐縮ですが、この事件は1994年に起きた「オウム真理教により引き起こされたテロ事件」です。住宅街にサリンという猛毒ガスが撒かれ、8人が死亡、200人以上が中毒症状を起こした事件でした。このときに最初に疑われたのは被害者であった河野義行さんでした。河野さんの奥様はサリンの被害者で事件以降寝たきりの状態になっているのですが、それでも担当刑事は疑い続けていました。
その1年後にオウム真理教が「地下鉄サリン事件」を起こしたことで河野さんの容疑が晴れたのですが、もし「地下鉄サリン事件」が起きていなければ、河野さんは疑い続けられていた可能性があります。最悪の場合は犯罪者になっていた可能性さえあります。河野さんの手記の最後には、地下鉄サリン事件が起きて河野さんの容疑が晴れたあとに担当刑事から電話がかかってきた場面が書いてあります。担当刑事からは謝罪の言葉は一つもなかったそうです。
この話を書いていて思い出した事件があります。今から25年前の平成12年(西暦2000年)に起きた「世田谷一家殺害事件」です。この事件は悲惨な事件で今でも犯人が捕まっていないのですが、隣に住んでいたお姉さまが「警察から疑われていた」と雑誌のインタビューで答えていました。このお姉さまは今では被害者遺族として全国を講演で回っているそうなのですが、一時は長期わたり疑われていたそうです。とても不安だったと思います。
この事件は、年末になりますと毎年必ずマスコミで報じられるのですが、そこには警察からのマスコミへの要望があると推測しています。その理由は、「未解決」ということもありますが、未解決事件はほかにもたくさんあります。そうした中でこの事件が25年経った今でも報じられるのは「警察の謝罪」の意味があるように思えて仕方ありません。「初動捜査のミス」という意味ですが、実際はどうなのでしょう。
昨年末に、「最高検察庁が各地の検察庁に自白に固執せず、適正な取り調べを徹底するとともに、事案に応じて任意の聴取も録音・録画することなどを求める通知を出した」と報道がありました。僕としては「今頃?」という気持ちですが、遅ればせながらでも適切な取り調べに近づくことはとてもうれしいことです。できれば録音・録画も「事案に応じて」などと言わずに「すべて」としてほしいものですが、同時に実質「人質司法」になっている制度も解消してほしいものです。
こうした警察・検察の問題点はマスコミに対しても当てはまります。先の「松本サリン事件」のとき、マスコミは警察発表を鵜呑みにして「まるで河野さんが犯人である」かのように報道していました。事件が解決したあとになってから「歪曲偏向報道」などと批判されていましたが、当時はSNSなどもありませんので、そのように批判するのもマスコミなのが悲しいところでした。現在ではSNSもありますので、マスコミがマスコミでいられなくなることもあります。自らを厳しく律する姿勢が求められます。
フジテレビの1回目の記者会見は参加者の制限があったり、撮影を禁止されたり、と会見とはいえないものでした。フジテレビがマスコミ企業ではなく一般企業であったなら、そうした過ちもあるかもしれません。しかし、「報道」に携わるどころか当事者である企業が開催する記者会見とは到底思えません。フジテレビにもいろいろな部門があるでしょうが、報道部の方々は誰も止めなかったのでしょうか。それが不思議です。
テレビ局は勝手にだれでも始められる企業ではなく、政府によって認可された企業だけがはじめられる業種です。多くの人に情報を伝えるツールであることを思いますと、ある意味「公共企業」とみなすこともできます。ACジャパンによりますと「公共広告」とは「広告の持つ力を公共に役立て、社会啓発させようとする理念を持つ広告」とのことですので、テレビ局も是非とも「テレビの持つ力を公共に役立て、社会啓発させようとする理念を持つ企業」となってほしいものです。
じゃ、また。