あなたはこうやって結婚生活に失敗する(18)の1
*いよいよ最終章です。3部に別れています。
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結婚28年
「話があるんだ」
今日は娘さんの結婚式でした。披露宴も無事に済み、親戚縁者とのあいさつも終え夜遅くに自宅に戻ってきました。さすがに今日一日は神経を使い、あなたも奥さんも疲れていました。家に着き着替えを済ませやっとくつろぐ時間を持てました。それは奥さんも同様で家に着くなり大きなため息をついたのは奥さんのほうでした。
あなたがリビングに座っていると奥さんがお茶を持ってきてくれました。二人して式や披露宴での出来事を思い出しながら語り合いました。そして次第に話題は昔話に移っていきました。娘さんが幼かった頃のこと。小学校のとき学校に「行きたくない」と突然言い出し、親として戸惑ったこと。中学に入り反抗期だった頃のこと。高校の部活の悩みで相談に乗ったときのこと。大学進学について意見が対立したときのこと。今まで家族で過ごしてきたたくさんの思い出に話が尽きませんでした。
そうやって夫婦で楽しい家族の思い出話を語り終わった頃。そうです。時計の針は深夜1時を指していました。思い出話に一区切りがついたとき、あなたたちはお互いに黙り込んでしまいました。
どうでしょう。1分くらいの沈黙でしょうか。もしかしたらもっと長かったかもしれません。あなたはあらたまって奥さんに向き直り「話があるんだ」と話しかけたのでした。
あなたは、急にあらたまって話しかけたことで「奥さんが戸惑う」と予想していました。しかし、奥さんの返事のほうが、あなたを戸惑わせるものでした。
「私もなの」
あなたは思わず声を発してしまいました。
「えっ?」
あなたが最初に戸惑ったのは奥さんの「言葉に対して」でしたが、本当の意味で戸惑ったのは言葉を発したときの奥さんの態度でした。奥さんの態度が毅然として落ち着き払っていたからです。あなたの戸惑っている様子を見た奥さんは微笑みながら言いました。
「どっちが先に話す?」
あなたがうろたえ返事をしないでいると奥さんが促しました。
「あなたからでいいわよ」
あなたは明らかに困惑していました。本来なら、あなたが奥さんを「驚かせまい」と落ち着き払った態度で接するつもりでした。しかし、状況は反対になっています。
その日、つまり娘さんの結婚式の当日、あなたは奥さんに「離婚」の話をする予定でした。これといった特別な理由はありません。奥さんに対して強い不満があったわけでも恨みがあったわけでもありません。奥さんと一緒に暮らしてきたこの約30年、辛いことも嫌なこともありましたが、トータルでみるとあなたにとって満足できる幸せな生活でした。それでもあなたは「離婚」を考えていました。
「実…は…、じ…つ…は…」
あなたは困惑から躊躇いの気持ちが強くなっていて言葉が続きません。奥さんはあなたの口元を見つめています。
「なあに?」
あなたは、奥さんにあらたまって質問されるとやはり切り出すことができません。奥さんは黙ってあなたの言葉を待っていましたが、あなたが言いよどんでいるようすに自分から口を開きます。
「じゃぁ、わたしから話そうかな…」
奥さんがそう言ったときあなたは安堵の表情をしたのでしょう。それを見た奥さんは言葉を続けました。
「驚かないでね。私…、離婚したいの」
あなたは思わず奥さんの顔を見つめます。そして先ほどと同じ声を発してしまいます。
「えっ?」
奥さんは表情を変えずにもう一度繰り返します。
「あなたと離婚したいの」
最初の予定では、あなたが奥さんに「離婚」の話をしようと思っていました。ところが現実は、奥さんがあなたに「離婚」の二文字を口にしているのです。あなたは思わず尋ねます。
「どうして?」
あなたはそう言ったあと、不思議な気持ちになりました。本当はあなたが「離婚話」を切り出し、それに驚いた奥さんがあなたに「どうして?」と尋ねてくるはずだったからです。もちろん、あなたは奥さんに尋ねられたときの答えも用意していました。ですが、現状は反対になっていました。
奥さんは、あなたの問いかけにあわてるでもなく淡々と答えてくれました。その間、あなたは黙って聞いているだけでした。あなたは奥さんの離婚の理由を聞けば聞くほど不思議な気分に浸っていきました。話の内容が、あなたが用意をしていた答えとほぼ同じだったからです。敢えて違いを探すなら、会社から奥さんに転勤の打診があることでした。しかも栄転です。営業所の所長というポストが用意されているようでした。
奥さんの話の途中、幾度かあなたはつい表情が緩んでしまいました。あまりにも似ていたからです。あなたの緩んだ表情を見て奥さんが怪訝に思っても当然です。
「あなた、どうしたの?」
あなたは「なんでもない」と言い、奥さんに話を続けてもらいました。
1時間ほど奥さんが話したあと、奥さんが尋ねます。
「大丈夫?」
それまでうつむいて聞いていたあなたは答えます。
「ああ。おまえの話はわかった。でも返事は少し待ってくれないか?」
こう答えながら、あなたはやはり不思議な気分になっています。本当は、離婚はあなたも望んでいたことだからです。それなのに「待ってくれないか」という自分…。
結局、その日はそれ以上の話の進展はなく後日結論を出すことで終わりました。
あなたが席を立とうとしたとき、奥さんが思い出したように尋ねます。
「あなたの話はなんだったの?」
あなたは立ち上がりながら答えます。
「俺の話か? それはもういいんだ。…それにしても今日の結婚式はよかったよな」
あなたの的外れな返事に少し奇妙な表情をした奥さんでしたが、それ以上問い詰めることはありませんでした。
あなたは寝床に入りながら考えます。
あなたが離婚を考えるようになったのは数年前からでした。理由は、奥さんと同じです。特別な理由はありません。敢えて言えば、そして誰からも顰蹙を買わないなら「なんとなく」です。しかし、世間というか周りの人たちは「なんとなく」という理由では納得してくれないでしょう。確固たる理由を知り安心したがるものです。この理由で納得してくれるのは奥さんだけかもしれないのは皮肉でした。
もし週刊誌の記者やワイドショーのレポーターがいたなら、「きっかけ」を追求してくるでしょう。確固たる理由がないなら、せめて「きっかけ」だけでも知りたいと思うのは第三者の普通の感覚です。第三者という人たちは当人よりくっきりとした輪郭を求めるものです。誰もが納得できる解答を探し出すのが第三者の習性だからです。
けれど、その「きっかけ」も確かなものがないのが真実です。ただ漠然とだからです。そのことについても、皮肉になってしまいますが、理解してくれるのは奥さんだけかもしれません。
そんなことを考えながらあなたは眠りにつきました。
翌日から、あなたは通勤時間中に、仕事の合間に、「離婚」の二文字が頭から離れません。いえ、仕事中も離れませんでした。もし、あなたの予定どおり、奥さんからでなくあなたから「離婚」の二文字を言い出したならこれほど悩むことはなかったでしょう。あなたは奥さんの真意を計りかねていました。
あいつはなぜ…。
そう考えると、自ずとあなたは自分の気持ちと向き合わざるを得なくなります。
俺はなぜ離婚を考えたのか…?
あなたは一人になりたかったのです。奥さんを嫌いになったわけではありません。確かに半世紀以上も一緒にいたのですから言い争いは数え切れないほどありました。ときには数日家に帰らないこともありました。それでも最後は元の鞘に収まっていました。つまり最終的には奥さんと一緒にいることを選択していたのです。そういうときあなたはいつも自分に言い聞かせていました。子供もいるし、これでいいんだよな…。
だからこそあなたは娘さんが嫁いだあと離婚を考えたのでした。子供です。一つの家族を作ったならそれを壊すことに罪悪感があったのです。その子供が成人し独立したならあなたは自由に生きることができるのです。数年前、あなたは娘さんが嫁ぐ日を自分が「自由になれる日」と決めていました。あなたが「一人になりたい」と思ったのは自由になりたかったからでした。
数日後、あなたは会社近くの喫茶店にいました。その喫茶店は勤務時間中にあなたがよく利用する喫茶店です。仕事で行き詰ったとき、一人で考えたいとき、気分転換をしたいときに通っていました。
その日も、その喫茶店にいるのに相応しい心持ちでいつもの席に座っていました。窓際の席です。あなたはコーヒーをひと口飲むと煙草に火を点け窓の外を見ました。多くの人に混じって若い恋人同士と思えるカップルも歩いています。
「俺にもあんな時代が…」
あなたは奥さんとつき合っていた当時のことを思い出しました。あの頃、あなたは奥さんと一緒にいるだけで幸せでした。まだ収入も少なく将来に不安もありましたが、それでも奥さんと一緒にいられるだけで満足でした。それは奥さんも同じでした。奥さんは、「もし、あなたが病気になって働けなくなったら私が養ってあげるね」などとうれしそうに話していたものです。そんなあなたたちがもうじき30年を迎えようとする今、お互いに離婚を考えているのです。しかも、確たる理由もなく…。
つづく。